連載

対論[第9話・後編]三條西堯水×田中康嗣
日本人としての素養

●深く分厚い教養よ

田中:香りを聞く、香りを愛でるのが香道の基本ではありますが、実際の香席に参加してみると、香りを楽しむ以外にもたくさんの要素がありますよね。文芸、つまり古今集や和漢朗詠集などを基点にした和歌や漢詩であるとか、源氏物語を取り込んだ源氏香などはもちろん、香席の設えや香道具、記紙や執筆による筆事では書の要素も加わっている。

三條西:そうですね。香道はその始まりから、公家(私の祖先もそのひとりなのですが)が関与していた。だから、当時の公家の文化の諸要素が香道の中に取り込まれています。ただ香りだけではなくて、そこにさまざまな和の要素が含まれています。

田中:一種の総合文化体験、統合文化活動になっている。初心の者には少しとっつきにくいところもありますが、日本文化の諸要素をトータルに体感できる利点もありますよね。

三條西:はい。ただ、一方で、それらすべての要素を楽しむには、相当な素養が必要でもあります。例えば組香には主題があるのですが、それが和歌だったりする。昔の人なら、たいていの和歌は頭に入っていたでしょうから、容易にその和歌が表す主題の世界に入っていけた。けれど、我々は基本的な和歌の知識も怪しげなものですから、いちいちその意味を説明しなければわかってもらえなかったり。共通の文化的基盤が崩れていますからね。

田中:1000年というような時間を重ねてつないできた文化的基盤。民族文化にとってもっとも重要な要素だったのに、我々はそれをつなぐことをやめてしまった。

三條西:知識の総量としては、もしかすると現代の方が増えているのかもしれませんが、日本人としての素養ということでは明らかに落ちてしまっている気がしますね。

田中:そうですね。インターネットなどの新しいメディアを通して、最新の海外事情だとか最先端の科学技術だとか流行のファッション情報だとか、そうした知識は皆たっぷり持っている。室町を生きたお公家さまや、江戸の商家の旦那さまにはまったくなかった知識です。けれど、そうした多くの現代人が持つ知識は、刹那的で細分化された情報でしかなく、持続性や関係性に欠けています。浅薄で、あっという間に流れ去る知識のカケラのようなものだ。しかも、そうした情報をどんなに持っていても、民族文化を支える文化的基盤には成り得ませんからね。

三條西:そうですね。日本人はもう少し深く分厚い教養のことを考え直さなければいけませんね。切れ切れの現在進行形だけの知識では持続性がないですものね。でも、少しだけ補足させていただきたいことがあって、つまり香道のいいところは、ハイレベルな知識、和文化の教養をたっぷり持っている人が楽しめるのはもちろんですが、何の知識も持っていない人、例えば小さな子供たちでも、香りを聞き分け香りを楽しむということに焦点を絞れば、充分に楽しめるのですよ。組香などで香りを聞き分けるのは、文化芸術の素養とは関係ありませんから、一流の文化人より幼稚園児の方が上手だったりしますからね。

●天然自然の多様性

田中:宗家はもちろん子供たちに負けることなく香を聞き分けることが・・・。

三條西:いえいえ、負かされることもありますよ。

田中:そもそも、六国五味といった香木の香りの差異とは、具体的にはどういったものなのでしょう。

三條西:香道では、六国つまり、伽羅(きゃら)・羅国(らこく)・真南蛮(まなばん)・真那伽(まなか)・佐曽羅(さそら)・寸門陀羅(すもたら)と、五味つまり、酸味・苦味・甘味・辛味・鹹味で香木を分類しています。六国というのはその香木の産地を表すとも言われていて、例えば、寸門陀羅はスマトラ、真那伽はマラッカというようなこと。五味は文字通りその香木の風味の違いで、例えば、鹹味というのは、しおけとかしおからいとも読んで、昆布などを火にくべた時の匂いに似ている、と言われています。

田中:つまり、六国と五味の組み合わせで香木の香りの違いを聞き分ける、ということでしょうか。

三條西:ええ、でも実際はそういうことでもなくて・・・。

田中:と、いうと。

三條西:つまるところ、香りというのはそんなに単純なものではないわけで、厳密に言えば分類などできないのです。もっと複雑で精妙。産地が同じ香木なら皆同じ香りかといえばそんなことはありません。同じ伽羅でもひとつひとつ異なる香りが立ちます。五味という考え方も整理の仕方としては分かりますが、実際の香木は、その五つの風味が複雑に絡み合っている。ただ甘味だけの香木などというものはありませんから。

田中:考えてみれば、それはそうですよね。香木はすべて天然自然のものですから、多様で多彩、ひとつひとつ異なる個性を持っている。

三條西:はい。しかも、香道ではそれを受け取る人間も天然自然。つまり、ひとりひとり違う感性を持っていますから、香りに対する感覚もひとりひとり違います。だから香席では、事前に書籍やインターネットで分類法などを調べてくるような真面目な人ほど、香りを聞き分けることが出来なかったりします。自分の感覚ではなくて、本に書いてある分類法に合わせようとするからでしょうか。真南蛮は甘味が勝るとか、寸門陀羅は酸味に傾くとか、調べた香りと見合う香りを探そうとして結局見失ってしまう。分類通りの香りなどありませんし、それに気を取られてしまうと自分の感覚からも離れてしまいますから。

田中:同じ伽羅でも違う香り。ひとうひとつ個性(キャラ)がありますものね。その時、その空間で感じる香りはその席だけのもので、再びということはない。

三條西:ええ。でも、その当座性がいいんじゃないかな、香席というものは。その時だけの、ある種の儚さというかね。

田中:分類して区分けて仕切ってしまうと自然そのものが持つ多様性も失われてしまいますものね。

●人から人へ

田中:香道はそのものの広がりもさることながら、他の日本文化にもさまざまな影響を与えています。歌舞伎や文楽にも香の世界そのままの外題がついた名作がありますよね。

三條西:伽羅先代萩ですね。伽羅(きゃら)と書いて銘木(めいぼく)と読ませる。伊達家の殿さまが伽羅でつくった下駄を履いて郭に通っていた、という巷説に由来した演目名です。その当時から伽羅と言えば稀少で高価な香木ですから、殿さまの贅沢三昧を象徴するアイテムだったのでしょうね。今の人々は伽羅と言われても香木を思い浮かべることはないでしょうし、それをメイボクと読む意味も分からないでしょうが、香道との関係はとても深い外題ですよね。

田中:香席や香木が身近にあった江戸時代の人々にとっては、当たり前のわかりやすいキーワードだった。

三條西:でしょうね。江戸期と言えば、「東海道中膝栗毛」を書いた十返舎一九も香道につながる名前なんですよ。

田中:ほう。どんなお話しですか?

三條西:蘭奢待はご存じですか?

田中:はい。正倉院に収蔵されている天下第一の名香ですね。蘭奢待という文字の中に東大寺が織り込まれている。

三條西:そうです。正倉院の目録には、黄熟香と記されていて、蘭奢待というのは通称のようなものなんですが、歴史に名を成すもっとも有名な香木です。普通の香木は香炉に置いて下から熱してゆくと、やがて香りが弱くなってしまいます。裏表を返すとまた香るようになるのですが、二度三度裏返すともう香りは立たなくなる。ところが、この蘭奢待は、10回繰り返してもまだ清らかな香気がただよう、というのです。これを「十返りの香(とがえりのこう)」と呼ぶ。

田中:十返舎一九の名はそこからきているのですね。

三條西:ええ。彼は、蘭奢待のこと、その香気のことを知っていて、それを自分の筆名にしたのでしょう。そして、同時代の人々は、その名を聞けば香のことや天下一の香木のことを思い浮かべることができたのだと思います。

田中:暮らしの中にあるべき自分たちの文化があったのですね。今、我々の暮らしは、大部分が借り物の異民族の文化で成り立っている。化学物質でできたルームフレグランスの匂いがトイレから漏れ出てくることはあっても、練り香や薫物や香炉で焚かれた香木の香りなどは、人々の暮らしからはほとんど排除されています。

三條西:本当に。しっかり伝えていかなければならないですね。途絶えてしまったら、再生などできませんから。文化というのはそういうものだと思います。中でも、香道は、まさに人から人へとつないでゆかねばならないのです。書物としてそのすべてを伝承することはできないのですよ。だって、香りは文字にはできませんから。

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撮影:金原守人

 

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