連載

対論[第3話・後編]神崎宣武×田中康嗣
バトンゾーンをつくり、但し書きを添える

●バトンゾーンをつくる

田中:さて、では、持続可能性をたっぷりと持つ良き日本の有り様を、文字通り持続させるために、それらを、つたえ・つなぎ・つづけてゆくために、何が必要なのか。それについての先生のお考えを、この機会にぜひ、うかがっておきたいのですが・・・。例えば、良き日本をつたえ・つなぎ・つづけてゆこうとするとき、障害になることのひとつが、そこにある縦社会的思考への拒絶反応です。縦社会的な考え方、親と子であるとか、師匠と弟子とのあり方、先人の教えへの評価、といった問題です。先達の型をまず身につける稽古などがその典型ですが、現代人は、そうした考え方に対してすごく否定的なのです。まず型を身に付けなさいっていうような修行を前提とする縦社会にも良いことはたくさんあるのですが、特に高度経済成長以降は、そのネガティブなことばかりが取り上げられて、社会的に否定されてしまっている。自分自身も否定派だったので、その気持ちもわからないではないのですが。上意下達なんて進化発展を阻害するだけ、自由闊達にやればいいんだ、と。さて、こうした、現代ではかなり分が悪い上から下へとつなぐ縦社会の利点とは、先生のお考えでは、例えばどういうことなのでしょうか。

神崎:縦社会にはね、「バトンゾーン」があるのですよ。それこそが、繋がる仕掛けになる。持続的な社会にとって不可欠なものですよ。親から子へ、親方から弟子へのバトンゾーンです。

田中:受け渡しのためのゾーン、ですか。

神崎:そう。持続可能な社会を長いスパンで考えると、そのバトンゾーンこそが価値をつないでゆくベースになる。今のような個人事業だけの社会ではすべてが「ヨーイ・ドン」ばかり。バトンをつなぐことがなくなって、文化継承の視点で見ればロスが生じているのではないか。

田中:確かにそうですね。だから全然重なっていかない。重なりのない、途切れ途切れの社会になってしまっている。

神崎:持続可能な社会のためには、次世代へとバトンをつなぐバトンゾーンが必要なのです。

田中:神崎バトンゾーン理論ですね。我々の世代も先輩からそういうものを受け継いだことないですから。完全に切れちゃっている。先輩が後輩を連れてきて、後輩が一番隅に座って、さまざまなことを学び経験するということが連綿と続いてきたのに、切れていますよね。行ったことも見たことも触れたこともないことがいっぱいある。けれど、未体験も未経験もすべて自己責任だと。

神崎:えらい世の中になりましたよ、だからどうするかね。バトンゾーンをもう一度つくり直さなければならないですよね。これを社会全体で考えるのは無理じゃないかなとすると、ひとりひとりがひとりひとりを一本釣りをするしかないように思いますね。この若者は田中さんが面倒見ようとか、誰かに預けようとか。バトンゾーンの第二走者を割り振るようなことが現実的なんだろうかと。

田中:はい。第二走者の割り振りと同時に、バトンの渡し手、第一走者の鍛え直しもね。

神崎:そうですね。昔の年寄りというのは、若い者に対して金をもったんだよね。例えば宴会なんかでもね。これを一面的に年功序列とか格差とかみてはいけない。上座に座る者っていうのは、そのポジションとしての責任がある。最初の盃を正座をして、私語をつつしんでいただく。正式には三巡するのが直会。神様と人間の直り合い、そしてその後につづく人間と人間の直り合い。それが納まったら、上座の者が楽座を宣言してはじめて膝を崩す。そうした作法を体現するのが上座に座る大人です。

田中:礼講、そして無礼講へ。

神崎:礼講あっての無礼講ですね。そして、無礼講のほうが盛り上がったら、上座のものは一足先に席を立つ。座布団の下に心付けを置いて出る。今、そういうことが見られなくなっている。「品のない金遣い」とは真逆の「品格ある金さばき」。上座の者がそうしたことをきちんと成せば、下座の者がそれを繋いでゆける。

田中:バトンゾーン。大切ですね。それはつまり、次の次元へとつながる中間領域のようなものなのですね。そう言われれば、日本文化にはさまざまな中間領域がありますよね。家でもない庭でもない縁側であるとか。身分を越えた座とか衆の寄合であるとか。

神崎:線を引いて区分していないが暗黙の領域があるんだよね。街の中にもね、街路であり軒先でもあるけれど子供たちが遊ぶ場でもあるような曖昧な領域がかつては存在した。そういう場所も今は全部区切って判然とさせる。それが安全と言われれば仕方のないことですが。

田中:曖昧な中間領域なくなってますよね、聖と俗の中間領域である河原のような場が。なんだかくっきりと区画整理された場だけになっている。だから社会がつながりを欠くことになってしまっているのですね。バトンゾーン。必要ですね。

 

●但し書きを添える

田中:つまるところ、コンピュータ的社会、1か0かで規定するような、白か黒しか存在を許されないような社会は持続性がない、ということでしょうか。白か黒か、決着つける、というようなことではなく、6割は勝っているけれど4割は取られている、みたいなある意味中途半端な決着の仕方だって可能なのに。

神崎:例えばね、江戸時代のお触れ書きなどには、必ず「但し書き」がついているのです。こうしなければならない、例えば、遊山に興じる女房とは即刻離縁すべしと書いて、遊山は御法度である、と言いながら、「ただし云々〜」となる。祖先を敬い、その慰霊のための巡礼の旅ならばそのかぎりではない、などと書き添える。だから寺社詣でや、特に伊勢参りを旅の方便に女房たちも動く。実態は遊山であってもそれならば許される。このような但し書きの文化は、つい最近までずっと続いていたのですよ。日本人はこの「但し書き」という便法を利用することで、結果として多様な社会をつくり、持続可能な世の中をつくっていた。今でも、日本では裁判での判決にも情状酌量が加味されるがごとくの但し書き文化があるんですね。

田中:なるほど。現代の日本でも、裁量範囲で判断するようなことはたくさんありますよね。

神崎:けれど今は、近代化や国際化、あるいはグローバリズムという名の下に、一元的原理や定説を絶対視するような窮屈な時代になっている。それも、いたしかたない流れですがね。

田中:世の中を規定する物差しを多様にするとか、曖昧さを認めるとか、つまり「但し書きを添える」ということは、持続可能性をつくってゆくときにも、もの凄く大事なことかも知れませんね。それがあるから多様性も図れるんですものね。但し書きがなかったら、例外も規格外も、型破りなことも、逃走する場もないですから。

神崎:それこそが日本文化だったのだと思う。未来の社会を構想するためにも私は思います。江戸の二百数十年をもう一度見直さないといけない、と。曖昧ながら融通無碍な江戸仕様という仕組みを通して、日本人は持続可能な社会をつくっていたのですから。

田中:但し書きのある社会ですね。

神崎:そうした社会的な余地を持ってないと二百数十藩が連合して二百数十年も続かないでしょ。今、私たちが日本文化と言っているものの多くが、この長期安定の江戸時代につくられているんです。「江戸に学べ」ですね。

田中:但し書きがあるから多様性も図れるんですものね。みんなに生きる余地があったし、居場所があった。例えば、江戸時代に「棒手振り」という職業があった。但し、棒手振りの鑑札をもらえるのは、15歳以下の子供か50以上の年寄り、もしくは身体の不自由な者だけだった。

神崎:はい。例えば、目の見えない人だけが按摩という職業に就けるとかね。そこから検校なんて身分もできた。

田中:これはつまり但し書きで規制を加えている。けれどそうした規制があるからこそ、社会的弱者である子供や年寄りや障害者にも生きてゆく場や社会的役割があった。但し書きなしで規制を排除してすべてを自由にしたら、強者が総取りするようなことになってしまいます。そんな社会に持続性はないですよね。

今日は、持続可能な地球への大きなヒントをいただきました。バトンゾーンをつくること、そして、但し書きのある社会を再起すること。
ありがとうございました。(完)

***

協力:紀尾井町 福田家
撮影:井手勇貴

 

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