連載

対論[第2話・後編]桂盛仁×田中康嗣
金持ちほど品がないです

●人間の品格を問う

田中:ところで、桂先生は、そうした職人的?作り手として、我々のような受け手・使い手と接しているのですが、対象となるお客さまに対する作り手としての思いにはどのようなものがありますか?

桂:自分は、ある種の贅沢品を創っているんですよね。お腹いっぱい食べて、素敵な衣装を身につけて、良い家に住んで、つまり衣食住が充足されて、そうした生活の諸々の一番後ろにくっついているのが自分の作品。景気が良くなるのは最後で、悪くなるのは最初。そんな存在です。ですから、客に恵まれなければ本当に苦労する。本音で言えば、我々の作品はそうした景気などに右往左往するようなものではないのですが、今は基準が金銭、つまり経済に置かれることが多い。アートに接しても人々の興味関心はその価格だったりしますからね。

田中:伝統文化は、作り手送り手側のさまざまな問題もありますが、受け手の問題も大きいですよね。

桂:ひと昔前までは、金銭じゃなくて、作品そのものを気に入って買っていくお客さんが大勢いた。三井物産の大番頭、益田鈍翁のような買い手がいましたから。それに引っ張られるようなカタチで、一般の人々にもそういう感覚があったのですが、もう今は何でもかんでも金・金・金、ということになってしまってるんじゃないかな。

田中:明治・大正の頃までは、お金を持ってる人が知性も教養も合わせ持っていて、目利きとして屹立していた。鈍翁や逸翁や即翁など明治・大正の財界人などは素敵ですよね。金もあるけど品もある。今はね、教養があって品の良い人は貧乏だったりする。今のお金持ち、富裕層って言うんですか、そういう人は概ね無教養で下品。悲しい世の中になっている。今数寄者のような人、いないものでしょうか。

桂:そういう人はあまりいなくなりましたね。金持ちほど品がないです。

田中:客の問題も大きいですよね。芸能も同じです、芸を観る方がなってないので、相乗効果でどんどんダメになっていく。分からぬ客が多いから、浅はかな芸が持て囃されて、深みのない芸がますます客を遠ざける。良い客をつくっていくことも大事ですよね。昔のいわゆる旦那衆的な、素人目利きがいてちゃんと見極める。良い仕事があれば、値段など聞かずにポンと購入する。そんな客をね。今だけ。金だけ、自分だけ、ではそれこそ持続可能な地球とはほど遠い。先生は、自分の作品は娘みたいなものだと常日頃おっしゃっていますよね。だから、それを売るときは、複雑な気持ちに包まれる、と。「お金はあまりないのですが、この作品が大好きで大事にします」というひとにもらってほしいとか。

桂:それはそうです。大事にしますって言う人がいいですね。本音を言えば、大金持ちの人が来て、お金を積まれても売りたくない。100倍払ってくれるなら、少し考えますがね(笑)。大事にしてくれる人だったら、値段を下げても良い。極端に言えば、差し上げてもいい。そんな気持ちになります。

田中:わかってくれる人がいると思うんですよね。お金儲けに懸命で、そうしたものに触れる機会のなかった人や、功成り名を遂げて次のステップを考えているような人。金持ちが金持ちとして品性を持って、品格を持って、芸術を理解する目を持つ。そんな人々がある数で存在しないと伝統文化をつなげていくっていうのも難しいかもしれないですね。

桂:確かに、品格があればどんなものでもさらに良いものになるんですよね。だからやっぱり、人間の問題。品の良い人ほど人生も良いものになるんじゃないかなぁと思うんですよね。

 

●暮らしの中にある美しさ

田中:先生の作品もそうですが、日本の工芸は、日常の生活・暮らしの中にある美です。だからこそ、そこに持続性があると僕は思います。ずっとつながっていくことができると思うのですよ。西洋のアートのように非日常的存在になると、日常が大変なことになったら、例えば疫病が大流行するような事態になったら、非日常などというものも失われてしまい、芸術文化などというものは無視されたり排除されたりします。(感染症蔓延する今はまさにそんな状況ですよね)西洋的アートは、余裕綽々で、日常の中に非日常をふんだんに組み込んでも大丈夫な貴族のような人々だけのものだったりする。それでは続かない気がするんですよね。日本の美、和のアートというものは、歴史的にも日常の中にあるものですから、ずうっと続いてゆく。人々の日々の暮らしがつづくかぎり。市井の人々が日々使ってる器が綺麗であるとか、身につけている着物の柄が素敵だとか。その方が継続性があると思うのです。

桂:伝統工芸はまさにそのような存在です。芸術としての伝統工芸というものは、芸術作品といっても、人々が使えるものだというのが共通の理解としてある。人々が使えるもので良いものを作るのが我々工芸作家だろうと。だから使えるものをまず作るんだと、というのが根本にありまして。つまりオブジェのようなものは工芸作品じゃないと思います。ある先生に言わせれば、「手のひらに乗っかるようなものや家庭内にあるものが工芸だ」と。

田中:すべてが用途を持っている。

桂:その上で、時代に即したものを創る。今を生きる人々が手にして使うものを創作する。長きにわたって受け継がれてきた技術を使って、新しい時代の作品をつくるのです。けれど、現在の実態はそうでもなくなっています。本来のあるべき工芸作品ではない創作がどんどん多くなっているということもありますよ。厳しい言い方をすると「展覧会芸術」といったものがそうです。展覧会、例えば公募展などがそうですが、現実的には応募された作品をすべて陳列することはできません。入落を決めないといけないのです。そうするとどうしたってそこには入選したい人が応募するから、入りたいですよね。だから審査をする人の目に付きやすいものを作ろうということで、極端な言い方するととんでもなく大きなものをつくってしまう。サイズがどんどん大きくなる。大きい方が目に入りますよね。遠くから一瞬にして。私が創る小さな帯留めなどは、それこそ手に取って間近で見てもらわないと美しさがわかっていただけない。だからまずは小さいものはつくりたくない。これから世に出ようとしている若い作家の人などは特にそのような思いが強くなるでしょう。もっとインパクトのある大きな作品を作らなければだめじゃないか、と。陶芸の分野などではそれが問題になって、応募作品は何センチ以下のものに限る、などというルールが設定されたりします。

田中:基準がおかしなことになっているのですね。美術館の工芸展などでも妙なものが多くなっている気がします。

桂:そうなのですが、美術館の学芸員の方々も苦労されていると思いますよ。結局の所、美術展の評価も、話題になって多くの入場者数を獲得したものだけが評価される。派手で新奇な、メディアが飛びつくような展覧会。地味で可憐な暮らしの中にある美、などというものは評価されにくいです。けれど、我々工芸作家がこころざす美は、そこにこそあるのですがね・・・。日々つづいてゆく穏やかで気高い人々の暮らしとともにある美なんですがね。

田中:持続性に欠けた世の中になっていますよね。その傾向は、ますます加速化しているようにも思いますが、だからこそ、日本の工芸が持っている不変的な価値がもう一度見直されるに違いないと、僕は信じていますよ。

●対談を終えて

桂先生が一枚の金属の板を立体にして創りあげる帯留。ずっと眺めていたいその美しい帯留には、千年続く彫金の技術がすべて詰まっていると教えていただきました。小さな帯留に施された気の遠くなるような作業の集積による超絶技巧の数々は、使う者のことを第一に考えた結果であり、自身の持てる技をすべて伝え・つなげようとする試み。自分の個性ばかりを主張した短命で終わるアート作品には敵わない輝きや重みがありました。(完)

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撮影:井手勇貴

 

 

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