連載

対論[第8話・後編]稲畑廣太郎×田中康嗣
余地・余白・余韻

●心のご馳走をいただく

田中:俳句は俳諧連歌の発句が独立したもので、もとは集団創作文芸だった。たくさんの人がひとつの作品を仕上げるのがこの俳諧連歌で、そうした文芸は世界的にも珍しい日本独特の存在です。西洋の人々にとっては、この複数の人間が一つの詩を仕上げるという行為が理解できない。欧米では一人の詩人がいて、その詩人の思いや考えが一つの作品になるのが文芸作品であって、いろんな人が繋いでいって一つの作品を創るなんてことはない。

稲畑:そうですね。詩というのは、西洋では専門家が創るものだ、というような考えが根強いですからね。詩を創作するのはプロの仕事なのですよ。ところが、日本では誰もが歌を詠んだ。万葉集がそうですよね。その後も多くの人が和歌を詠んでいますが、皆プロの詩人と言うことではありません。貴族たちがたくさんの歌を詠んでいますが、それは貴族の嗜みのひとつであり、楽しみのひとつであった。専門職ということではありません。

田中:日本では誰もが歌を詠んだ。だからみんなでひとつの詩を創ることも可能だったのですね。歌仙を巻くときでも、発句つまり最初の一句を考える人は、次の人のことを考えながら詠んで、付句を考える二番目の人は、最初の人の句を理解してそれを上手に受けて、その上に自分の思いや考えを加えながら、さらに次の句を付ける人のことを思いながら進めてゆく。どこまでも、他者を慮る気持ちがなければ成立しない。西洋的な、一人の詩人の自己主張がポエムであり、作者はただ一方的に自らの創作を世に問うようなやり方では絶対に成り立たない文芸ですよね。

稲畑:はい。だから調和を大切にする心、ある種の協調性は絶対に必要でしょうね。

田中:常に自分以外の他者のことを思いながらつくっていくというのは、とても日本的なこと。俺がオレが、というような自己主張を重視する人々では難しい。

稲畑:それはそうですよね。だから貴族の嗜みなのですよ。

田中:日本にはそういう共同創作と呼べるような芸術がたくさんありますよね。

稲畑:ありますね。これは外国の文学にはないですよね。芸術的にもないですよね。音楽や絵画でもそんな例はないでしょうね。

田中:日本では絵画でも賛を入れることがありますよね。あれも西洋の芸術からすると、考えられないことなのでしょう。例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた絵に誰か違う人が文字を書き加えるなんてこと、ちょっとあり得ない。

稲畑:あり得ない。でも日本は当たり前ですものね。

田中:むしろ賛が入ってやっと完成する。

稲畑:そうですね。正岡子規が亡くなったときに、下村為山という画家が絵を描いて、その絵に高浜虚子が「子規逝くや十七日の月明に」という賛を入れている軸が虚子記念文学館にあります。とても良い作品です。

田中:一種の共同創作というか、複数の人間が一緒になって一つの作品をつくっていく。絵を描く人は賛を入れる人のためにどこかに空白を用意している。賛を書き入れる人は絵師の思いを充分に理解して文言を練る。互いに慮って一つのものをつくるというのはとても独特な創作ですが、すごく素敵だなと思います。

稲畑:そうですね。協調の芸術。和をもって尊しとなす、という言葉のままの創作ですよね。俳句の結社などでもそれをモットーにあげることが多いです。俳句の会というのは句会を共にしている間は上下がないわけですからね。私も何度も句会をさせていただきますけれど、その私も無記名で自分の作品を出して、そうして集まった皆の作品を皆で平等に選ぶわけですから。俳句をつくって、それで終わりではないのです。結社の人々、座を同じくする人々の交歓がそこにある。だから俳句は「座の文学」と言われるのですよ。

田中:一人のアーティストが自己主張をするような文芸ではないのですね。

稲畑:自己満足より座の喜びを共有する方が心が豊かになりますからね。今の社会でも経済的な豊かさではなくてやっぱり心の豊かさがね、心のご馳走が必要なんじゃないですか。俳句はまさに心のご馳走なのですよ。

田中:現代社会は、本当にギスギスした人間関係が蔓延していますものね。人間関係も持続性を欠いている。そういう社会にあっても、俳句の座に時々加わっているだけでも全然違いますよね。

稲畑:そうなんです。俳句を詠むのに競争心も小賢しい技巧も計算もいりませんしね。必要なのは、隣の人のことを少し慮る気持ちや自分も含めた自然に対する優しい気持ちだけ。

田中:はい。まさに持続可能な地球のために必要な心構えと同じことですね。

 

●余地と余白、そして余韻

田中:俳句のもうひとつの大きな特色に世界最短の文芸ということがありますよね。ここにもすごく日本的なものを感じるのですが、つまり徹底して削ぎ落としていく、という方法論。最短にすることによってむしろ豊になることに日本人は気付いていたのだと思う。つまり、自分の表現を削れば削るほど受け手の方に感じる余地が生まれる。

稲畑:その通り。削ることによって観賞の幅が広がるのですよ。

田中:すべてを表現してしまうと、鑑賞者はただ受け取るだけになってしまい、そこに自分の思いや考えを加えることが出来なくなる。

稲畑:そうなんです。ですからね、それがまた俳句の魅力でもあるのですけれども、解釈がね、一つではないのですよ。俳句の鑑賞で大事なことは、作者がある意図を持って詠んだ作品であっても、鑑賞した人がそれとはまったく違う意図や意味で観賞しても良い。作者はそれを怒ってはいけないのですよ。

田中:それで怒るのは、なんだか西洋的な感じですよね。その解釈は自分の制作意図とは異なっているから間違っている、という作者の考え方は。

稲畑:その通りです。

田中:絵画でもそうですよね。余白だらけの日本画とキャンパス全部を余白なしに塗り切ってしまう西洋画。すべてを描ききると、受け手が自分なりに解釈する余地はなくなり、思いを馳せる余白もなくなり、記憶に残る余韻もなくなる。

稲畑:今ホトトギスの表紙を描いてくださっている方は岡信孝さんという方で、川端龍子のお孫さんなんですが、その方の絵にもね、やっぱり余白がたくさんあります。岡さんも、この余白こそが日本画ではとても大事だとおっしゃっていて。ところが最近の日本画は余白がどんどん少なくなっている、と嘆いてらっしゃる。それはもうまったく西洋の影響だと。日本画にはやはり余白がないと駄目だというようなことを常々おっしゃっていましたね。

田中:余白があるから、受け手の解釈の余地が生まれるのですからね。そこに作者と鑑賞者の交歓も生まれる。

稲畑:そうなんです、日本文化は本当に余白の文化で、お能なんかもそうでしょ。舞台の上には何にもない。後ろにあるのは老松の絵だけ。だからこそ、鑑賞者はそこに大パノラマ、大スペクタクルだって感じ取ることができる。それを支えているのが余白の文化、省略の文化。

田中:余白、余地、余韻。それがあるから豊かなのですよね。すべてが描き込まれたものより広くて深い。

稲畑:そう。だから日本人は西洋画の中でもスケッチやデッサンが好きでしょ。私もそうです。例えば、ダヴィンチのデッサンが見つかったとかで、それが話題になって、ペンでさっと走り描きしたようなその絵を見て感動しています。完成されてない絵の方が好きだったりしますから。

田中:確かにそうですね。日本人はデッサンをとても高く評価する。完成品よりもそっちの方をありがたがったりしますね。

稲畑:そうでしょ。応接間の一番良いところにデッサンを飾ったりしますからね。

田中:本当に。生け花などもそうですね。日本の生け花は、空間つまり余白をつくってゆくもの。花はもちろん大事ですけれど、もっと大事なのは、花と花の間、何もない空間です。西洋のフラワーアレンジメントには余白はありませんから。空間を全部埋め尽くす。日本の生け花には、余地・余白・余韻があります。

稲畑:まさに、花を使って創る俳句ですね。余白をつくる芸術ですね。それが醍醐味でもあり、楽しさでもあり、難しさでもある。

田中:そういう意味では、むしろ埋め尽くす方が楽ですよね。

稲畑:全部言ってしまうほうが楽です。西洋の人は、俳句を詠むときですら全部言おうとしますから。非常に短い中でもやっぱり全部言ってしまいたいんですって。だから俳句の構成が起承転結になってしまったりします。彼らは詩の中にも物語を求める。それでは俳句ではなくなるのですがね。

田中:余地や余白があるから豊かな世界が広がり多様な物語が生まれるということに世界の人が気付いて欲しいですよね。そこには多彩な解釈が可能で、どんな解釈でも受け入れられるのですから、結果的にとても多様な社会ができあがります。時代や地域を越えた解釈だって可能ですから、とても持続的でもある。俳句はまさにそうした思想と哲学の典型ですね。

稲畑:そうです。だから田中さんこそ、俳句をやらなければなりません(笑)。

田中:おっしゃるとおりです。まずは歳時記を買いに書店へ参ります。今日もまた、持続可能な地球のためのたくさんの視点をいただきました。ありがとうございます。

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撮影:井手勇貴

 

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