連載

対論[第6話・後編]山井綱雄×田中康嗣
カレーライスとナポリタン

●ハイブリッドな別名保存

田中:日本文化の持続性を考えるとき、それを支えているもうひとつの大きな要因に、既にあるものを更新せずに温存する、ということがありますね。新しい存在が現れ採用された場合でも、古いものを淘汰せずそのまま残してゆく、という日本的なシステム。

山井:はい。例えばね。雅楽というものが昔ありました、やがてそれは滅亡して能になりました、新たに生まれた文楽や歌舞伎がそれに取って代わり、能はもうなくなりました。明治になって西洋の演劇や音楽が入ってきて、今では、ミュージカルとロックだけが残っています。というようなことには、なりませんよね、⽇本では。日本伝統文化の特色は、各時代の文化芸能がそのまま伝わり併存して今日まで残っているということです。

田中:上書きして更新して保存していくのが西洋だけれど、日本は別名で保存して、過去のものも全部とっておくんですよね。ファイルが膨大なことになってタイヘンですが、なぜだかそうする。舞踊や武道や茶道などでは、流派の数が多すぎて、特に外国の人にとっては、まったく訳の分からないことになったりしている。それでも尚、どんな流派も温存されていますから。西洋なら、例えばピアノだとかバレエなどにたくさんの流派があって、それぞれに家元がいるなんてことはないです。

山井:どうしてそうなんでしょうね。考えてみれば不思議なことです。

田中:ちょっと深掘りしてみたいテーマのひとつですね。

山井:もうひとつ。日本文化の持続性を支えている要素として「ハイブリッド化」みたいなことがあります。外から入ってきたものを割と素直に受け入れ、手本にして真似ながら、微妙に作り変えて行き、既にあるものと混合させて、なんだか別種のものを作ってしまう、といったことです。

田中:最初はたんなる模倣なのだけれど、結局最後には自分のものにしてしまうようなこと、多いですよね。

山井:日本人は、最終的には、自分たちのオリジナルなものに作り変えてしまいます。見事なものです。

田中:いまだにずっとそうですよね。トンカツとかカレーライスとかナポリタンとか。本来のものとはまるで別種の、けれど見事な亜種を創り上げる。再創と呼べるような西洋のそれとは次元の異なるクリエイティブだ。日本語のラップなども、ぼちぼちハイブリッド化が完成しつつあるような気がしますね。最初はただの猿マネで恥ずかしいこと夥しいものだったのが、今ではなんとなく自分たちのものにしつつある。

山井:能楽だって、世阿弥が能を作りましたよって話ですけれど、世阿弥は別にゼロからクリエイトしたわけじゃなくて、さまざまな要素を合体させたって話なのですよ。

田中:大和猿楽の出だった世阿弥が近江猿楽を取り込んで能楽を大成させた、とか。

山井:そうです。様々な芸能を取り入れて、能楽っていう形にハイブリッドにしたっていうのが正確な言い方だと思いますね。

 

●経過する時間を評価する

田中:結局のところ、そうしたさまざまなことの基盤となっているのはなんだろう、と考えたとき、我々日本人は、持続すること、つまり長い時間の経過そのものを尊重し、そこに大きな価値を見いだしているのではないか。今、そこにあるものだけではなく、そこに至った時間を組み込んで評価する。歴史を積み重ねたものにとても高い価値を与える。

山井:能面などもそうですね。今でも新しく作られた面がたくさんあるのですが、古いものの方が圧倒的に存在感がある。例えば、能面をお持ちしてお見せしたときに必ず問われるのは、これは何百年前のものですか?ということだったりします。すみません、これは新作で、先週出来上がったばかりなんです、なんて答えると、え〜〜先週ですか!?ってね。誰もありがたがらない(笑)。

田中:能舞台の老松も、古ければ古いほど、なんだか有り難いです。

山井:ですよね。それはもう本当にそう思います。面や装束などのお道具は、使い込まれてきたものの方がやっぱり価値として高い。お道具だけではなく、能楽師自身の価値だってそうです。西洋の、例えばバレエの方々がおっしゃるような、ジャンプができなくなったら表現者としては終わりだ、というような発想は、日本にはないですから。歳を取っても、どこまで年齢を重ねても舞台に立ち続けることに価値を置くのが日本のあり方。本当に不思議なことです。もちろん、老いれば肉体は衰えますよね。けれど、我々は肉体が衰えたところからが本当の勝負だと言われるのです。

田中:経年劣化するという考えがない。あるのは、経年深化だ。使えば使うほど、どんどん艶が出てきてどんどん美しくなるとか、そういうことを言いますよね。

山井:そうですね。すべてを経過して、最後の最後に行き着く境地というようなものに最高の価値を置くのですよ。70歳、80歳の能楽師ならではの、1足1足の歩みに人生を積み重ねて到達した深さがある、などと。

田中:観客もその思想と哲学を共有しないとダメですね。今だけを見るようではいけない。それでは、80歳の爺さんがトボトボと歩いているだけだった、というようなことになってしまう。

山井:例えば、関寺小町という曲目があります。最奥の秘曲と言われるものですが、主人公は100歳になった小野小町なのですよ。

田中:金春流では一子相伝の秘曲ですよね。

山井:そうです。流派を越えて、能楽最高の秘曲なんです。では、なぜこの曲目がそれほどの秘曲なのか。100歳の老女を主人公にした演劇ですよ。世界に類がない。僕はこれこそが、日本の伝統文化なのだと思います。僕らの目指す境地というのは、肉体が強いとか、それが年と共に衰えるとかではなくて、人間が最後に行き着く境地というのは魂にあるのだ、ということなのですよ。

田中:魂は年齢と共に衰えるようなものではありませんからね。

山井:そうです。関寺小町は世阿弥時代の曲ですから、当時の100歳ってある意味化け物のような存在ですよ。なぜそんな老女を主人公にして描く必要があったのだろうって僕は考えた。能には神さまや仏さまがたくさん出てくるのに、どうして能楽最奥の秘曲の主人公が100歳の小野小町なんだろうって、すごく不思議だったんですね。でも実は、この100歳の老女こそが、神であり仏だったのです。人間は、歳を重ねてやがて聖なる存在に昇華する。そこが人間の最高到達点であり、そこにこそ最高の価値があるのです。

田中:日本では、老人たち長老たちというのは神に近い存在だ。

山井:死に向かう間際こそが人生の頂点である、人間としてのピークであるというか最高点であるという考え方。人間はそこを目指して進むのだという考え方。

田中:いいですね、素敵です。

山井:いつまでも成長し続けていく。舞台の上でその長い道程を、その人の人生の全ての生き様を見せてゆく。舞台に立つ能楽師は皆そうです。

田中:西洋的、現代的考え方だと、年寄りはもう引退しなさい、ですものね。最後の最後まで登っていくのだ、というのは素晴らしいことですね。

山井:西洋文化の美しさとは違う美ですよね。それが日本の能楽の表現としての美しさ。人間という存在をとことんまで描ききるんだっていう。本当に棺桶に入るギリギリのところまで描ききる。しかもそれが最高であるというふうに描く。

田中:時を積み重ねたその先に、最後の最後に本当の美しさがある。衰えて死に向かっているというよりも、どんどん純化されて神に向かって登ってゆく感じですものね。まさに持続することこそが価値あることになっている。

山井:だから能楽って、僕は世界最高の芸術だと思っているのですよ。

田中:舞台の上に杖をついた老能楽師が登場する。そこに神に近い人間の魂を観る。そうだったんですね。また能楽堂に行きたくなりました。ありがとうございます。

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協力:久良岐能楽堂
撮影:井手勇貴

 

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