連載

対論[第6話・前編]山井綱雄×田中康嗣
灰色で曖昧な領域

室町時代に観阿弥・世阿弥が大成させた日本独自の伝統芸能、お能。簡素化された舞台空間、力強く洗練された舞、和歌の美しい言葉を引いた流麗な謡、高度な音楽理論に支えられた囃子など、さまざまな要素が混じり合い創られる幽玄な世界。極限まで無駄を削ぎ落とされた動きは、1つ1つに数多の意味が込められており、無表情なはずの能面で喜怒哀楽のすべてを表現する。足利義満・豊臣秀吉・徳川家康と、武士階級に保護されながらその芸は伝えられ繋げられ、舞台芸術として現存世界最古を誇ります。そんなお能は「持続可能な地球」を導くヒントに満ちていることでしょう。今回は金春流シテ方能楽師の山井綱雄さんを訪ねました。

山井綱雄(Yamai Tsunao)
金春流能楽師。重要無形文化財(総合認定)保持者。公益社団法人「能楽協会」本部理事。公益社団法人「金春円満井会」 常務理事。公益社団法人「日本芸能実演家団体協議会(芸団協)」 実演環境整備部会 部会員。
金春流79世宗家 故金春信高、80世宗家 金春安明、富山禮子に師事。金春流能楽師であった祖父の影響で5歳で初舞台。以来数々の大曲秘曲を披演。全国にて能楽公演、学校普及公演、講演会を開催。 「NHK文化センター青山本校」講師。
アメリカ・LA「グラミーミュージアム」公演、スコットランド・エディンバラ国際演劇祭参加、カナダ能公演(団長)、カナダ芸術家創作能オペラ「Kayoi-Komachi」主演等、海外での能楽普及創作にも尽力。平成26年度 文化庁文化交流使。
洋楽邦楽他芸術家とのコラボレーション作品多数。NHK大河ドラマ「江」「真田丸」出演と能楽監修・指導。金春流は豊臣秀吉も愛好した1400年の歴史を持つ能楽最古の流派。
「日本人のココロ」の啓蒙に奔走している。
山井綱雄さんWebサイトはこちらから

 

●能楽の中のニッポン

和塾理事長 田中康嗣(以下、田中):能はおおよそ650年余ですか、つづいていますよね。継続して上演されている舞台演劇では世界最古の存在。

山井綱雄(以下、山井):そうですね。例えば、能よりも古く発生したギリシア演劇や中国の戯曲などもありますが、発祥から現在まで途絶えずに継続しているわけではありません。能の世界的意義としてよく言われるのは「今日まで一度の断絶もなく伝来伝承しつづけた世界最古の舞台芸術」ということ。

田中:はい。そこで疑問なのは、なぜ、そんなに長きにわたってつづいたのか、ということ。能の持続可能性は何が支えてきたのか。

山井:複合的な要因があったと思いますね。まず思いつくのは、これはよく言われることですが、日本人の民族性というか気質があったのじゃないか。我々の能楽の元になっているものっていうのは「祭り」なわけですよ。神や仏に祈りを捧げ、人々の幸せとか社会の安寧を祈念する集いとか行為。例えば、能には「翁」という演目があります。中でも狂言方の三番叟。籾ノ段 ・鈴ノ段 は、豊穣の礎となる種まきだとか稲穂を象徴した舞になっています。つまり、稲作や畑作を通した豊かな実りを祈念する。そうした行為は、もちろん一人ではできませんから、集団として共同体として稲作や畑作に勤しみ、そして祈念する。そして共同作業によって得られたものは、皆で分かち合う。結果として、人間はその命をながらえることができます。能というものは、そうした思いや行為、つまり日本人の生命とか人生を進める活動とともにあった。娯楽としてのたんなる演劇ではなかったことが、つづいてきた要因のひとつなのだと思います。

田中:なるほど。物語を楽しむ類いのステージ・パフォーマンスとは異なる存在だったと。人々の祈りと共にあった。

山井:そうした稲作など基点とした祈りの先には、自然崇拝という能楽のもうひとつの特色があります。例えば舞台のこと。僕らはここのように檜でつくられた舞台をずっと大事にして使い続けます。そもそも、本来の能舞台は屋外、つまり⾃然に囲まれていた場所にありました。明治維新以降は、建屋の中に置かれた舞台が多くなっていますが、佐渡島などには今でも自然の中にある能舞台がたくさんあります。建屋の中の舞台であっても、橋懸かりの手前には必ず3本の松が植えられています。そして、舞台の奥には、これもまた必ず、鏡板(かがみいた)といって、⽼松と⽵の絵が描かれている。その空間はある種のパワースポットとして、何か人智を越えたエネルギーが集まるポイントなのかも知れない。

田中:そうですね。自然と共にあったというのは、能楽が何百年にもわたって持続した理由の一つではあるかもしれないですね。世界の演劇の中でも、能楽には特にそういう側面がありますものね。

山井:木材だけでつくられた古びた舞台など、欧⽶にみられる「解体・再構築」という考え⽅なら、一度御破算にして新しくピカピカに作るのじゃないかな。⽇本の能舞台には、昔のものを⼿間暇かけて再利⽤したようなものがたくさんありますから。その方が価値がある、という考え方ですから。

田中:鏡板などは、移築再利用のものが多いですものね。日本人の自然感と祈りや暮らしに寄り添ってきた能楽のあり方を象徴している。

山井:持続性につながるもうひとつの視点は、日本の文化を彩るグレーな感覚があると思います。

田中:グレー? 灰色、ですか?

山井:そう。白と黒をはっきりさせないで、グレーで進める、という考え方。白黒の間にある灰色の領域を尊重して進める、というか・・・。

田中:なるほど。白黒はっきりさせない決着、ですね。日本では勝ち負けも6対4だったり、7対3だったり。敗者にも居場所がある着地点が用意されていたり、ということですね。場合によっては、喧嘩両成敗なんて決着もある。修羅物のお能などでは、勝者も敗者も区別なく皆同じ修羅道に墜ちてゆきますしね。欧米的感覚だといささか曖昧な決着ですが、その方が持続的なのかもしれない。敗者にもつないでゆく余地がありますものね。ただ、昨今はそんな思考法が否定的に捉えられることも多いように思います。イエスかノーかをはっきり主張しなければダメだ、とか。曖昧な領域の存在を認めない社会になってきた。

山井:そうですね。けれど、価値観の違う者が共に存続するためには、白でも黒でもないグレーな存在が必要で。その重なり合った、混じり合ったような領域を仲介してゆくことがとても大切なんだということを、日本人は古来から考えてきたわけですよ。そういう思いが能楽の中にもたくさんあります。ある種の多様性というか、それぞれは異なる存在がたくさん出てきて共存している。皆さんによく話すことですが、お能の舞台には、神さまと仏さまが一緒に出てくるのですよね。欧米の考え方なら、異教だと排除されるものが一緒の扱い。舞台の上の神仏習合です。神も仏も同じだと。そういう思想を日本人は独自に作り出してきたのではないですか。違うということに目くじらを立てるのではなく、違いを認め合って、その間を取って進めてみる。互いにグレーゾーンを行くということに日本人は古来から長けてきたはずなんですよね。だから持続することができた。

田中:灰色というのは今では少し印象の悪い言葉になってしまっていますが、そうじゃないんですね。人間と人間、社会と社会をつないでいるのが灰色の領域なんだ。白と黒だけではつながらない。

 

●西洋が見つめるニッポン

田中:そうした「灰色」の視点を持って眺めると、「YES」と「NO」だけで成り立つ文化というのは、「1(イチ)」と「0(ゼロ)」だけでできているデジタルな文化もそうですが、曖昧な領域がないために早晩行き詰まる気がしますね。今世紀に入って欧米の文化が急速に魅力を失っているのも、そうした思考が原因になっているんじゃないか。

山井:行き詰まっていますよね、僕もずっとそう感じてきています。

田中:僕らの十代二十代の頃は、アメリカはそのすべてが格好良かったし、イタリアのファッションなどは本当に憧れだった。今はもう、手本にすべきものはほとんどないですね。

山井:問題はね、そのことを日本人自身がちゃんと理解しているかどうか。オリンピックにしても、万博にしても、そうしたことを僕たち自身がきちんと理解してからやりたい。世界中の人々の関心が高まっているのですから。つまり、いわゆる西洋文化がこの数百年で作り上げてきた文明とか文化の限界が近づいていることに、多くの西洋の人々が気づきはじめているのですよ。自分たちは一体何のために生きているんだろうっていうふうな、ある種の侘しさ寂しさというか。次から次へと新たな物を作り続けて、結局それで一体何をもたらしたのかっていうことに対して、何かものすごく限界とか虚無感を彼らは感じているんじゃないですか。

田中:世界的な「SDGs」の動きなんかもそうですよね。このままではもうダメだと。何かを大きく変えなければ、地球自体が存続できないようなことになっている。けれど、彼らの文化の中に、それに対する良き解答が見出せない。

山井:そう、まさに行き詰まり、行き止まりです。では、そうした事態を回避するためのヒントはどこにあるのかと周りを見回すと、東の果ての島国に自分たちとはまったく違う価値観とか、真逆の感性、感覚を持っている人びとがいることに気付いた。だから彼らは今、僕たち日本の文化に対して強い関心をもっていると思うのです。日本には、何百年も途切れることなく同じ舞台で同じ詞章を謡っている人々がいるのですから。

田中:まさにその通りだ。能楽の中のニッポンに持続可能な地球へとつづくヒントがたくさんある。西洋の人々もそれに気付きはじめているのでしょう。けれどね、なんだか少し嫌味なことを申し上げるようで心苦しいのですが、そのお能の送り手、創り手たちが、例えば海外公演などでも、シェイクスピアに取り組んだり、マリー・アントワネットを主人公にした舞台を試みたりすることが多々ありますよね。どうにかして西洋の文化文明にすり寄るようなことをしてしまっている。自分たちとは異なる価値観や感性を探している西洋の人々は、そんなこと、つまりシェイクスピアやマリー・アントワネットを能楽の中に求めているはずもないのに。そもそも、世阿弥の風姿花伝が成立したのが15世紀の初め頃、シェイクスピアが活躍したのは、それから200年も後のことですから。

山井:それはもちろん、日本の古典をそのまま作品として持っていければ、それが一番いい。けれど一方で、それこそやや灰色な決着ですが、洋の東西をコネクトした形のものを作るというのは、一つの見せ方としてはありなんじゃないのかなと。ただそれには注意が必要で・・・。

田中:コネクトしたつもりでいても、実際は西洋の枠組みの中にある異国情緒のような存在として組み込まれちゃいますものね。刺身のツマのような。刺身そのものには決してなれない。

山井:そうですね。添え物だったり、ゲテモノ扱いされたり。けれど、能楽は、そう簡単には取り込まれないとも思います。能楽師の身体表現は西洋のそれとはまったく異なるものですから、西洋文化の装飾品のようなものにはならないと思うのです。それに、外国と日本や、現在と過去といったものをコネクトしてゆかないと、これからの時代に持続性を持つことは難しい気もするのです。時にはそれは、能の冒涜だとか、能の歴史を壊すとか、能を汚しているとか、言われかねないこともある。そのギリギリのところを、崖の縁を落ちないように上手く進めるのだ、というふうに思っているのですけれどね。(後編へ続く)

 

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