連載

対論[第3話・中編]神崎宣武×田中康嗣
人間は、いろんな匂いがしますから

●分断の時代

田中:今、人々にとっての田舎がなくなったり、芸術や文化を支えていた旦那衆がいなくなったり、そうしたことの基点として断絶した社会が見えてくる気がします。例えば、昭和30年代後半、自分が通っていた小学校などには、本当にさまざまな人間がいた。例えば、在日の人々であるとか、被差別部落の出身者であるとか、父親がヤクザだとか。金持ちのご子息もいれば、貧乏人の小せがれもいた。これは実際、父兄参観日に粋な着流しでやってくる父兄がいて、親父何やってんだって聞いたら、組関係だ、みたいなことがね。けれど、今は、小学校なども地域によってほとんど均一なことになっている。在日も被差別もいない。障害者もいない。純粋培養みたいなことになっている。多様な社会が大切である、などと言いながら、ちっとも多様じゃない。それぞれをそれぞれの領域に押し込んで、区切って仕分けて分断して、結果多様な社会が見えなくなっている。どんどん多様性とは逆の方向へ向かっている気がしませんか。

神崎:そうですね。小さい枠の中で生きている人々の集合体では「多様」に対する理解ができなくなって、偏見が社会に充満する。多様な個人があり、さまざまな家族の形があり、多彩な思いや考えや生き方がある、ということを感覚でわかっていれば偏見やそこから生じる忌避感とか差別感情などは生まれないでしょうにね。多様であることを認め受け入れる。僕の経験でも、例えば昔は学校の中などでもいろんな匂いがあった。なんだか自分とは違う匂いの子もいるんだよね。家業もさまざま、家族構成もさまざま、家屋だってさまざまだ。食べものもトイレもさまざまの多様な生活があったから匂いも人それぞれ。もちろん、不潔にならない程度にそれぞれさまざまだった。友だちは、みんないろんな匂いがする。現代は、清潔であることは良いことだが、異臭を認めなくなった。

田中:そうですよね。昔はもっと街中にもさまざまな匂いがあった気がします。今、特に都会は無味無臭だ。匂いの多様性も失われている。人間の匂いまで分断されている。

神崎:いろんな匂いがあるということが、いろんな人間がいるということ。人間だけではなく、自然の香りだってそうでしょう。草花の香りも、海や川の匂いも、獣や魚介のそれも、都会にはなくなっていますよね。

田中:世界が多様な社会を尊重しよう、と宣言し、日本でもそうした主張があるのだけれど、実態がまるで伴っていない。事態はむしろ悪化している。江戸時代の方がよほど多様な社会があったように思いますね。熈代勝覧という江戸時代の日本橋を描いた絵巻物があるのですが、そこに全部で1671人の人間が描かれている。それがつぶさに見ていくと本当におもしろいのです。まさに多様な社会。女もいる男もいる、子供たちがいて老人がいる、お武家さまも商人も職人も僧侶もいる。障害者だっている。今の車椅子に相当する「いざり車」に乗って往来を行く人が描かれているのですよ。廻りにいる人々がそれをまったく気にしていない。つまり、障害を持つ人が町中にいることがごく普通のことだったのでしょう。もちろん、盲目の人だっている。座頭が道の真ん中を杖ついて歩いている。描かれたすべての人々が、皆、生き生きしているんですよね。分け隔てなく多様な社会を多様なまま受け入れている。すべての人に、自分の居場所がある社会。今の方がよほど息苦しい社会になっている。

神崎:江戸にまで遡らなくても、永井荷風や谷崎潤一郎の描く社会だって今よりずっと多様です。問題は、そのような社会が現実としてあったにも関わらず、今を生きる人々が、それらを自分とは関係しないものと思い込んでしまっていることでしょうね。

田中:時代小説なども読んでいる人は多いけれど、自分とは関係ないと思ってしまっているのですよね。そこに今こそ活かせる智慧があるのに関係ないと、古い話だということにして、今の自分と関わってるとは思わないですよね。

神崎:大いに関わっているのですがね。いま一度、それらのひとつひとつが、今のどこかしこに繋がっているのだ、という見直しをする必要がある。

田中:本当にそう思います。つながっているのだと。博物館のガラスケースの向こうにあるような過去の遺物ではないのですから。

神崎:日本には「八百万の神」で象徴されるすべてを受け入れる思想と対応がもともとあるんですからね。多様な自然環境、多様な動植物に囲まれて暮らす民ならではの特質ですよ。活かさなければならない。

 

●多様であるということ

神崎:日本は、まさに一律に規定することなどできない多様社会です。風俗風習も地方や地域で全部違う。地方や地域どころか、村ごとに違うといってもよい。

田中:家ごとにも違う。

神崎:確かに、家ごとにも違うところがある。正月の行事をみても、例えばお雑煮のつくりかたひとつとっても、家ごとに異なってくる。

田中:そのために、統一的な説明がとても難しいことが多い。結局どういうものなのか、確立された基準がないものがたくさんありますから。

神崎:多様である分野は、多様であるということを前提で語らねばならないでしょうね。そこに共通、共有できるものは何か。それが、文化を語るということになるでしょうね。

田中:日本文化は本当にそういう意味では多様だから。けれど今の人って基準を求めたり、権威を求めたりっていう傾向がすごくあって、もっとも正統なものはどれ、本家本元はどれなの、といった問いが必ず立ってくる。多様な文化文明で、正統性を求められると困りますよね。

神崎:だから、正当とか正統などという言い方はしない方がいい。せいぜいどれが典型かということだろう。僕自身も、これをもって正当ということは喋ったり書いたりしないようにしている。けれど、学校教育などではそうもいかないことがあってね。学校で教えるのに、多種多様、バラバラというわけにはいかんから、ある程度集約せざるを得ない。ところが、昨今は情報が多様化しているから、価値観も広がっている。それぞれが正統だと主張したら、またバラバラになる。多様なものを多様なままで受け入れることが、さらに難しい時代になっていますよね。

田中:本当に多様、多彩です。結果ではなく、元から源から多様。だから結局、曖昧にしか答えられない。

神崎:やはり、そこでは「特定できないが」ということを言わないといけない。『広辞苑』を見ればわかるんでね。日本語は、一つの言葉の解釈が幾通りもあるんだから、辞書を引いてみればよくわかるんです。他の国では、『広辞苑』のような分厚い辞書が一般的には出廻っていないはずですよ。

田中:一つの単語の持つ意味が多様。

神崎:はい。だから、日本の社会は、その中で意味や解釈を取捨選択ができるようになっているのですよ。文字化が成ってからも1000年を越える言葉の歴史があるのに、その意味や解釈を統一できない。そもそも統一する必要もない。同じ言葉で、読み方も解釈もたくさんある。それを、ときと場合によって使いこなせる日本人がいる。本当に『広辞苑』ほどの分厚い辞典が出廻っているのは、世界に類例はないのではないですか。

田中:言われてみればそうですね、

神崎:風俗や風習などでも多様な実態がごまんとある。それらすべてを受け入れて、それぞれを尊重できるはずの日本人だった。それが、だんだんこう一極集中的な解釈になってしまい、日本語が貧困の体を呈しているのではないか。

田中:そうですよね。

神崎:それはそれとして、もともとそうであったかそうじゃなかったかというのをね、問い続けないと。

田中:曖昧な決着を許さないですもんね、最近。

神崎:デジタル機器の便利さは認めますが、例えば辞書を引いて確かめる、考えることを忘れてはならないでしょうね。(後編へ続く

 

 

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