連載

対論・福原寬×田中康嗣「伝統音楽の世界に学ぶ持続可能な地球」後編

ところで、ほとんどの日本人にとって、幼少期に日本の伝統文化、伝統音楽に触れる機会はなかったはず。小学校での音楽の授業でも、学ぶのは西洋音楽が中心です。そんな中で、福原さんは、和楽器を小学校の授業内で教えていた父の影響もあって篠笛を始めました。学校ではピアノやフルートなどの西洋楽器も学んでいたのですが、長唄囃子笛方の人間国宝であった四世寶山左衛門師(六代目福原百之助)との出会いによって、伝統音楽の世界にのめり込んでいったそうです。

●日本のオリジナリティ

田中:日本の教育で不思議だなと思うのは、篠笛や能管はもちろん、三味線・太鼓・小鼓・琴など日本独自の民族音楽、民族楽器があるのに、小学校の授業などではほとんど触れられることがない。我々が小学生のときの音楽の授業と言えば、カスタネットにトライアングル、ハーモニカにリコーダーでした。日本のものはゼロでしたね。日本で教育を受けた人なら、ほぼ全員が、リコーダーとハーモニカを演奏したことがあるけれど、篠笛や能管を触ったことがある人はいない。なんだか妙なことです。自分たちの音楽を持っているのに、子供たちにそれを学ぶ機会をつくっていない。音楽だけではなく、美術の授業でもそうですね。西洋の絵の具を使って水彩画を学ぶ。日本の染料や顔料を使うことはありません。自国の文化をこれほど疎かにする国は珍しいのじゃないか。なんとかしたいことですが・・・。

福原:教育の場は必ずみんなが通るところですから、そこに日本のものが入っているのはすごく良いと思うんですけどね。

田中:そうですね。子どもの頃の実体験は、その後の日本文化の受容に大きく影響しますから。例えば、日本の伝統芸能受容の特殊性のひとつですが、実体験のある人、つまりはプレーヤーじゃないと楽しめない、理解が難しいところがありますよね。体験すればするほど面白みも増加する。その芸能に自分も関与して自分のイマジネーションを膨らませないと面白くならない。ハリウッドの映画など欧米のエンタテインメントは、原則、全部説明してくれるから、オーディエンスはただ受け取るだけで良い。西洋、欧米の芸能は純粋な観客でも楽しめるのですけれど、日本の芸能は、客の側がその芸に関与していって初めて面白さが出る。

福原:伝統芸能は全てそうですね。だから授業で体験したりして踏み込んでくれるとだんだん面白さがわかってくるのにと思います。実際に父が教えていた小学校の卒業生の中から何人もプロの演奏家が生まれていることを考えますと、大切なことだなとしみじみ思います。ところで、西洋での芸能と言えば、特にフランス人などヨーロッパの方はお能などがお好きですが、日本の伝統的な美意識など分かっていただいて評価してくださるのでしょうか。

田中:踏み込んでの理解という意味では・・・、分かってはいないと思いますね。ただ、彼ら欧米のオーディエンスは、オリジナリティとか独創性、比類なき個性といったものを最大限に評価する。だから自分たちが全く観たことも聴いたこともない存在に対して、大いなる興味を感じ、素直に驚き、純粋に喜ぶ気質がある。自分たちにとっての鮮度が、高い評価に直結する。たとえば、黒澤 明の映画と小津安二郎の映画を比較すると、ヨーロッパでは小津の映画の方が受けが良いのですよね。小津のあのほとんど動きのないような(まるでお能のような)映画は、欧米の人々にとっては、圧倒的にオリジナリティがある。それに比べて、黒澤の映画は、かれらの活劇、例えば西部劇などにも少し似ているところがありますから、静的な小津のそれより評価は低くなる。能楽への高い評価も、この西洋の人々の、どこも似てないものが大好きな気質から解釈できるのではないか、と思います。

福原:なるほど。

田中:だから、西洋音楽好きな友人に言うんですよ。日本人がいくらバイオリンを頑張っても、どんなにギターを上手に弾けても、所詮は二流の一流にしかなれない。それではどこまで行っても、借り物でしかない。たとえ西洋楽器の世界的コンクールなどで、優勝した日本人がいたとしても、その人は、残念ながら、異文化をマスターしようと殊勝な努力をつづける珍しい東洋人でしかない。借り物では一流には決してなれないことに、日本人は気付くべきでしょう。欧米人の真の敬意を獲得し、本物の一流をこころざすなら、借り物ではない自分たちの独自のもの、つまりオリジンをやらなきゃいけないのです。リスペクトされたいのなら、フルートではダメ。篠笛なんだと(笑)。実際、僕のフランスの友人などは、その通り、と言います。ワインに詳しくて、グラスをグルグル回しているような日本人を見ると、苦笑してしまいます、などとね。けれど、肝心の日本人がそこを分かってない。海外に行くときに、一生懸命オペラの予習をしたりフランス料理の勉強をしたり、スーツの着こなしを学んだりする。そんなことをしても向こうの人はなんとも思わない。それよりも篠笛1本持ってくほうがよっぽど本当の意味のリスペクトがあるのにね。

●互いを慮る文化

田中:日本の伝統音楽のオリジナリティといえばもうひとつ、あのリズムというか拍子の刻み方も本当に独特ですよね。小さな音節の塊のなかの拍の長さが均等じゃない。欧米のリズムを基点に考えると、全然わからない。幼い頃から西洋音楽で育っていると、均等な三拍子・四拍子で刻むことが身体に染みついているから、この日本の拍についてゆけない。

福原:分かりづらいですよね。西洋音楽を勉強してきてる人ほど、わからないって言います。大体でいいんですけれどね。例えば「せーのっ、パン」っていえば誰でも出られるでしょ。それと同じような感覚で、その場の運びとか、掛け声をきいて大体で合わせる。

田中:適当で良いって言いながらも最後ぴしっとみんな合ったりするじゃないですか。だから適当じゃない。

福原:もちろん適当ではないんですけどね。

田中:西洋音楽を学んできた人は、ともかく楽譜をください、となる。五線譜を。音楽というものは五線譜の中にあるものだという常識で育っているから。多くの人がそうだと思いますよ、なぜ五線譜を書いてくれないのだろうと、みんなが思っている気がします。

福原:五線譜だと本来の演奏とは違うものとして捉えられちゃう危険性があります。我々は逆に五線譜を見ちゃうと、演奏できなくなっちゃうんですよ。つまり、五線譜からは我々にとって大切な演奏感覚が読み取れないのです。五線譜っていうのは、西洋音楽を西洋音楽として記していくのに適した記譜法なんだと思いますね。

田中:あともうひとつ、伝統音楽で驚いたのは、指揮者がいないこと。例えば何十人もの演奏者が並ぶ長唄の演奏が、指揮者がいなくて成立するのはなぜなのでしょう?

福原:我々は、音楽を演奏していく上で、目視っていうのは全く使わないですね。例えば歌舞伎とか舞踊の場合は、ある程度目で役者さんの動きを感じて追って、それに演奏を乗せていくことはもちろんあるんですけど、演奏だけの場合はほぼないと言っていいですね、目で何かするというのは。基本的に伝統音楽って単旋律音楽なんです。1本の旋律をみんなで沿うように演奏する。西洋音楽みたいにハーモニーは基本的にない。同じ旋律を演奏しているんで、とりあえず合うのは当たり前。お互いの息合いとかそういうものを感じながら演奏していくので、まぁこうきたら当然相手はこう弾きたいだろうというのが分かって、それで一緒になろうと思えば同じような感覚でそこは持っていきますし、あるいはちょっとずらしたほうが面白いなと思ったら、ずらして出るようにするとか。そういうのを常に全員がやっている。

田中:みんなで競い合いながら生かし合いながら。

福原:そういうものだと思いますね。

田中:ちょっと自分を殺してでも全体のために。自己主張が強いと無理ですね。

福原:もちろん自分を出していくっていうのはあっていいと思いますし、必要だと思うんですけど、塩梅が良くいかないと楽曲自体を壊してしまう。やっぱり大人数で演奏することが多いので相手を慮ることがすごく大事。ある程度相手を信頼して相手に任せる部分が自分の中にないとだめ。その舞台が1番良いものになるように、そのためにどういう風に関わっていくか。西洋音楽は慮るよりも自己主張、個性を発揮することに価値を置いていますが、音を表現する縦の線が合わないとその響きが崩れてしまうから指揮者がいたり、そういう意味で相手と合わせるっていうことはあります。でもそれと、私たちがいう「相手を慮る」のは全く違う意味、別のものなんです。慮るという感覚は西洋的な言葉に訳すことが難しいと思いますよ。

田中:自分よりも相手の方を少し大事にする。互いが違いを活かしながら。この視点てすごく新しい。鼓の人間国宝の先生も、「私たちは舞台の上で戦ってるけど、勝つために戦ってるんじゃなくて相手を生かすために競い合ってる」とおっしゃっていました。

福原:その方がみんな幸せになれるような気がします。

田中:今日はありがとうございました。

 

西洋音楽に慣れ親しんだ現代の日本人が、日本の伝統音楽と接したとき、しばしば驚くのがその「分権的」な演奏手法です。指揮者やバンドのリーダーが仕切る集権的な西洋の音楽演奏とは違い、日本の伝統音楽には全体を統べる者が不在です。演奏のスタートも、曲中の間隔や休止も、変調やリズムの変化も、リーダーの指揮=指示によるのではなく、全演奏者の気と間によって統べられています。誰も指揮を執っていないのに見事に調和することを可能にしているのは、自己よりも全体を大事にし、演奏者全員が互いを慮り、互いを活かすことを重視する姿勢。みんなが参加し共有し関与してつくる文化文明が日本には古くから存在しているのです。こうした日本古来の分権的なあり方は、多様な社会を肯定し、多彩な個人にそれぞれの持ち場を提供できるシステム。昨今流行の「シェア」する枠組みが、我が日本には1000年も前から息づいているのですね。

●対談を終えて

何百年もの昔から、長い時を経ていまなお受け継がれる日本の伝統音楽。そこには、自らのオリジナリティを追求するよりも、師匠(先人)の芸を大事にする日本人の精神性がありました。福原さんの笛の音色には、何世代も前の笛吹き名人たちから伝え繋げられた謙虚な職人魂が詰まっていました。そして自分の個性で引っ張るよりも、互いに相手を慮り、相手を互いに活かすことに優先順位を置き、最高の演奏を作り上げる。歴史を超えて連綿とつづく思いや行い、そしてものごとを全体的・包括的に捉える−−−そんな未来的思考法が日本の伝統音楽にありました。(完)

***
撮影:柳原美咲
文・構成:片野智枝

 

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