日本文化市場論 第四話

第一話「往復書簡の趣旨」
第二話「閉じられた衰退市場」
第三話「厄介なスパイラル」


トール君、「閉じた生態系の中で送り手と受け手の関係性が濃くなって排他的になり、共倒れで衰退してゆく」って! 日本の素晴らしき伝統文化がそんなことになったら困りますよ〜。ま、だからこそこの「日本文化市場論」なんですよね。どんな解法が見えてくるのか、楽しみです。
第三話はコメントも盛り上がってました。だるまさん、まきさん、さわださん。メッセージありがとうございます。コメントを受けて、論がさらに深まれば素敵だと思います。

さて第四話は、こうぢ君による返書。「伝統」と「新機軸」の問題ですな。

日本文化について考えてみる。第四話

トール殿

拝啓
守りと攻めのバランス。まさしく、言うは易く行うは難しですね。

こうした危機に対する時、衰退したブランドの再起事例を思い起こしたことがあります。かつてはトレンドの先端に位置したブランドがその力を失い、いつしかディスカウントストアの常連に成り下がる。トイレのスリッパにロゴ入れちゃうとか。酷い状態に陥った例、たくさんありますね。しかし、いくつかのブランドは、こうした壊滅的状況から復活している。G社やD社が好例です。彼らはいったい何をしたのか。
定番商品の維持とまったく新たなラインの開発です。基本は皆同じ。守りと攻めのバランス、ということですか。ただし、実情は圧倒的に「攻め」に比重を置いた。新しいクリエイティブディレクターを外部から迎え、それまでとは様相が大きく異なる新商品を続々と展開。コミュニケーション戦略も、表現、メディアともに大転換を図る。まるで新しいブランドを創るような作業です。残っているのは名称だけ。その他はまるで別モノといった例もあります。こうした強力な「攻め」で再創造されたブランドに、かつての定番商品が飲み込まれていく。ブランドは再起し、トイレのスリッパは売り場から姿を消す。ビジネス的にはこれで一件落着です。

しかし、対象が「伝統文化」となると、この手法をそのまま適用するのには問題があります。例えば、狂言の世界に外部から優秀なクリエイティブディレクターを迎え、それまでとはまったく別モノの「狂言」を創造する。その「新狂言」が人びとに受け入れられ、強い集客力を持ち、衰退した狂言を大きく復活させ、やがて旧来の狂言を飲み込んでいく。でも、それでは、結果出来上がったものはもはや伝統文化じゃないんですな。ファッション・ブランドのGが昔とはまったくの別モノになっても大丈夫なのに、伝統とは別モノの新狂言は受容しがたい。ここが難問。
もちろんこれには「程度の問題」がある。どこまでの新機軸なら許容されるのか。伝統という基本価値と新しさという付加価値のバランス。これは、基本価値がどれほど社会に定位しているかということにも影響されるでしょう。例えば、歌舞伎の基本価値は強い定位があるゆえに、かなりの新機軸が許容される、といったことです。ただ、それがどの程度の新機軸であれ、結局基本価値と衝突することに違いはない。伝統文化の基本価値が持っている宿命です。
これまでも、さまざまな日本文化が、こうした活動を試行してはいます。取り組みがちょっと中途半端ですが、新作狂言とか新作浄瑠璃など。しかし、それらが市場に定着するのは、なかなか難しい。むしろ否定的扱いが常態。これは、たんに業界内の守旧勢力や保守派が否定している、というのではなく(そうしたこともあるようですが)、受け手がこれを評価しない、ということでもあるのでしょう。そんなこと(新しいブランドの創造)など求められていない。

伝統文化の再生はことほど左様にやっかいです。商品そのものには、原則的には、手をつけずに再起を図らねばならない。守りに比重を置かねばならない宿命を負っているのです。(この物言いには、異論がありましょう。例えば、歌舞伎をご覧なさい、と。歌舞伎は常に時代に則した新たな要素をその内に取り込んで進化してきた。この12月の歌舞伎座でも宮藤官九郎によるゾンビ歌舞伎が実演される。常に新たな視点を加えることは、伝統の継承と両立するのだ、とか。古典は、そもそもそれが生まれた時代のモダンアートだったのだ、とか。「新しい価値を現在に創りあげる。伝統はそういうものによってのみたくましく継承されるのです」といったのは岡本太郎先生ですぞ、とか。それはそれで正論です。太郎先生が敢然と否定した所謂伝統主義者には、当方も先生同様の違和感を覚えます。が、この場の議論では、伝統芸術の定義とかその真の意味での継承に関して深入りするのではなく、もう少し(ある意味)皮相な視点から、生活者と文化の関係式を眺め、あくまで「原則的に」商品そのものには手をつけずに再起を図らねばならない傾向が強い、ということです。新機軸の余地が皆無というわけではないが、比重はやはり古典側に重い、ということです。・・・異論を前提に補足しておきます。) つまり、伝統文化の類は、他の商品、ビールやカメラやファッションブランドとは立ち位置が異なるのです。コアバリュのひとつが「伝統」なのですから。新たな取り組みによる攻め手が、その新しさがゆえに商品と不整合を来す。ここに、K社のIのような新商品の投入が可能かといえば、ちょっと難しい。
和塾にもご登場いただいている東次郎先生の大蔵流山本家に「乱れて盛んなるよりは、固く守りて滅びよ」というコトバがある。その心意気、当方は大好きですし、いつまでもそれを実行しつづけて欲しいと思う。だが、しかし、ホントに滅びたらタイヘンです。「固く守りて滅びよ」の精神、当事者には必要でも、周りがこれに同調してはいけないと思う。その固く守られた文化をいかに活性するか。古典・伝統といったコアバリュをもつ商品に、時代の流れに則した新たな価値をどのように付加するのか。我々に突きつけられた課題ですね。挑戦のし甲斐はありますが、少々難問でもあります。

難しいというだけでは、話しが進まないので、当方の頭に浮かんだかすかな光明を最後にひとつ。ブランドの活性のためには新機軸、つまり何らかの「新しさ」が必要ですね。ただ、その「新しさ」は、絶対的なものである必要はない。たぶん相対的でも良い。
和塾で何度も経験したことですが、日本文化というのは、我々のような人間にとっては、新鮮な驚きの連続です。お稽古に参加するたびにニュースを手にしている。琵琶の背面はどうなってる、とか、土器と漆器はどちらが古い、とか、琴と箏はどう違う、とか・・・。それはもちろん、受け手がモノを知らないからですが、経験も知識もない対象にとっては、古いモノもただそれだけで新しい。相対的新機軸というわけです。
ここに、日本文化の「攻め」のヒントがあるのではないか? 商品そのものではなく、対象や環境を梃子に、相対的鮮度を際だたせる。コンテンツではなくコンテキストに着目する。まだ茫洋としていますが、攻めのきっかけになるのでは、と思うのです。

今日はこんなところで。

敬具

※次回はトール君の返信。1週間以内に返すがルールとなってます。お楽しみに。
※ご意見ご感想お寄せください。

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