日本文化市場論 第八話

日本文化について考えてみる。第八話

第一話「往復書簡の趣旨」
第二話「閉じられた衰退市場」
第三話「厄介なスパイラル」
第四話「中心的価値と新機軸」
第五話「守ることは眠らせることじゃない」
第六話「東次郎の挑戦」
第七話「動的な定義」

連載第七話では、例えば舞台を集団で跳ね回るような日本舞踊(→参考)やポルシェのミニバンが、ブランドを毀損するような存在なのか、についてトール君から疑義が出された。皆さんはどう考えますか? こうした議論に「正解」というようなものがあるのかどうか。あるとすればそれはどのようなものなのか。連載書簡の行く末が楽しみです。

さて、今回はこうぢ君からの再反論。この議論着地するのでしょうか?

トール殿

拝啓
例えば、茶の湯の首尾をまっとうするのは「和・敬・清・寂」。あるいは、和塾でも学んだ日本美=禅の美は「不均斉」「簡素」「枯高」「自然」「幽玄」「脱俗」「静寂」の七つの特徴を持っている(久松真一の分類)。それこそ欧米人なら「Nice Try!」と拍手するような「集団ダンス日本舞踊」に、そのような核心的価値に対する真摯な洞察があるとは思えません。こうした誤った挑戦は「ただ刺激のために刺激を追って、内心の苦悩を一時的に窒息させておこうとするにすぎない。(大拙)」ものだと、当方は考えるのですよ。
ポルシェのミニバン。これ、本当に発売されれば、当方など真っ先に購入する可能性がある。話題性も抜群だしね。流行もの好きにはたまらない。日本での販売台数は、かなりのものになる可能性が、おっしゃるように高いでしょう。けれどそれは、やがてブランド価値を毀損する。間違いなく。
良い実例があります。1997年に初代が発売されたメルセデス・ベンツのAクラスです。エントリーモデルに位置づけられたハッチバック型のコンパクトカー。それまでもっとも安価だったCクラスよりさらに低い価格で発売されたこのクルマは、サイズも同社車種で最少。発売当初は話題でしたねぇ。予約しても納車までかなり待たされたり。だがしかし、市場の評価はやがて厳しさを見せ始める。ベンツが標榜するスローガン「Das Besten oder Nicht(最善か、無か)」に対して、200万円台で購入できるコンパクトカー。ブランド価値との不整合は隠しようがなかったのです。やがてベンツの販売不振は世界的な傾向となった。この時期、Aクラス以前につくられた車種、つまり中古車の方に人気が集中。品薄となった「最善か無か」時代のベンツの価格が、新車よりも高値となる事例も発生したようです。エントリーモデルということですから、ベンツとしてもこのクラスで顧客との絆をつくり、ロイヤルティの高いベンツ・ファンを育成・確保しようとしたのでしょう。けれど、事態は思惑通りには進まなかったように思います。本質的価値と不整合を起こした入口を設定しても、それはそのブランドの入口にはならない、ということでしょう。
だから、舞台の上を飛び跳ねて新規の顧客のための入口をつくっても、それは日本舞踊の確かな市場を形成するためのエントランスにはなり難い、というのが当方の考え。伝統芸能の再生を目指すということなら、入口はもう少し考える必要があるということです。
ただし、これらの論は、新たな挑戦自体を否定するものではないことは申し上げるまでもない。ブランドは常に更新されねば死滅する。挑戦は必須です。ただそれは、「曖昧な遊びの領域を残すのも粋なことだ」などという考えですべてを受け入れるような博愛精神では対処し得ない問題をはらんでいます。どんな挑戦なのか、ということは常に厳しく検証する必要があるのではないか、ということなのです。

あれっ? 私、また青筋立ててます? 論を進める、なんて気持ちで臨むとどうしても原理主義者みたいになって困りますね。まあ、リアルの世界では、飛び跳ね日本舞踊家集団とエグザイルのコラボ仕掛けちゃうようなタイプですからそう心配しないでください。物事は原理通りに進まないっすからね。日本文化は相当危機的な状況です。事業仕分けも進んでいる。だから今、あまり考え込んで何も出来ないよりは、何でもイイから何か仕掛けていった方が良いということもある。机上の論は机上の論としてしっかり進めながら(それもとても大切です)、現実の世界では柔軟にね・・・。

少し青筋が引いたところで、机上の論に戻ります。
それにしても、こうした見解の相違・乖離はどうしたものか。周りを見回しても、やはり悩める関与者が多いようで。当方そこに問題がふたつあると考えます。
まず、日本文化(伝統芸術)の中心的価値について。人びとの理解は当方が考えるよりずっと多様なようで(前提に関する誤解もあるようですが、これについては後述)、このもっとも肝要なるテーマ(=日本文化のコアバリュとは何か)についての共通理解が形成されていない。ブランド(日本の伝統文化)の核心的価値が、関与者において一致した認識にいたっていない。だから、ブランドのアクションが適切であるか否かの判定にブレが生じている。人によって評価が異なることになっているのですな。舞台で飛び跳ねるような日本舞踊はダメだ、という人もいれば、それもイイじゃないか、という人もいる。
次に、中心的価値に関する理解が一致している関与者の場合でも、それに基づいたブランド行為の許容範囲に差異があること。どこまでの行為がコアバリュと整合性があり、どこからが不整合を来すものとなるのか。現状では、この判定においてもブレが生じている。ポルシェのミニバンは許されることなのか、ブランドを毀損することなのか。評価は人によって大きく分かれてしまう。

難しい問題ですね。マーケティングというのは、一見科学的な外見を取り繕ってはいますが、実態はとても科学とは言い難い部分が多く、具体的事例での厳密な定義となると急に口数が少なくなる傾向がありますです。そうなんだよね。ブランド価値の定義など、実はとっても文学的なことになっている。それを基準としたブランド・アクションの許容範囲も、物理的な領域設定などムリな話しになりがちです。

だが、しかし、できりかぎり多くの人びとを素晴らしき日本の文化に関与させる可能性を見いだす、というこの書簡の目的のためにも、事の厳密化・精緻化を避けるわけにはいかない気もしているところです。

競争とポジショニングの話し、今度こそ少し前進させましょうや。
振って振られて、また振り返すことになってますが・・・。次信からの大展開を刮目して待ちます。「本質的な価値は変えずにポジショニングを変えることで競争力を高めること」に成功すれば、本質的価値をめぐる激論で右往左往することもなくなりそうなんで、期待しちゃいますよ。

では、今日はこんなところで。

敬具

※次回はトール君の返信。1週間以内に返すがルールとなってます。お楽しみに。
※ご意見ご感想お寄せください。

→第九回