日本文化市場論 第七話

日本文化について考えてみる。第七話

第一話「往復書簡の趣旨」
第二話「閉じられた衰退市場」
第三話「厄介なスパイラル」
第四話「中心的価値と新機軸」
第五話「守ることは眠らせることじゃない
第六話「東次郎の挑戦」


ブランド価値に関する論考、これで収束なのかと思ったのですが、そうでもない。予定通り進行しないのも往復書簡の良いところ。第六話での具体例に対して、今回の第七話では、トール君からの異論が提議されるようです。議論が白熱してちょっとドキドキしますが、読者としてはその方が面白い。どんどんやってもらいましょう。これで日本文化再生への道筋が見えてくるのなら、甲論乙駁大歓迎。コメント欄への闖入もますます盛んにお願いしますです。

それでは、連載第七話。ブランド価値論考再燃です。

こうぢ殿

「マイケルばりの集団ダンス日本舞踊」とはまた、手厳しいですなあ。よっぽどお気に召さなかったようで。話だけ聞く分には、ナイストライと拍手してあげてもよさそうな気もしますが。
ブランドのコアバリュというのは見極めが難しいものですからね。あまたの試行錯誤と議論を経て、ぎりぎり最後に残るもの。企業でブランドアイデンティティのワークショップなどに参加された方は経験があるやもしれませんが、いろんな価値要素を表面から順に削いで行って、それを失うともはや存在価値が消滅するというすれすれのところに、ひとり涼しい顔で鎮座しているありきたりのものがコアバリュだったりするわけで、言ってみれば一見無駄ないろんな努力を経て少しずつ削り出されて、次第に見えるようになる性質のものなのでしょうね。
逆説的に言えば、そうした日本舞踊の新しいチャレンジも、それが「ベクトルが違う!」と感じる貴殿の憤りも、長い歴史の中でふるいを左右に揺り動かす動きのひとつととらえられるのかもしれません。
あるいはその対立する解釈のさらに奥深く、器量の大きい本当のコアバリュがのっそりと眠っているのかもしれません。
問題は、暗にご指摘の通り、当人たちがどういう心構えでやっているかということでしょうけどね。

それと、コアバリュに関しては、誰かも書いていましたが、日本の文化の特徴として、ものごとを厳密に取り決めないで曖昧な遊びの域を残しておくことを粋とするようなところがありますよね。価値の芯は芯として、何かが確かにありそうだと思えれば、あえてそれを抜き出したりせず曖昧なままとどめておいて、その外側にいろんな価値をポジティブにデコ盛りできてしまう。
そもそも日本語自体がそうですからね。表記法も含めて数種類のルーツから、淘汰・選り抜きではなく積んで重ねて合成して、実に複雑な言語体系を築いています。俗な例で恐縮ですが、牛丼の旧名である「かめちゃぼ」なんて、説明は省きますがものすごい成り立ちかたをしている言葉ですよ。
宗教で見ても、日本には「衆生を救うありがたい存在」という曖昧なコアバリュさえあれば、神仏合一をした上に、マリア観音みたいなものまでこしらえてしまう、たくましい(節操のない?)混血/変異能力がある。
そこで思うのは、もしかしたらそういったダイナミズムの上に、見えてくる本質的価値というものもあるのかもしれないということです。

ファンには怒られるかもしれませんが、ポルシェのミニバンが出たら、よく売れてしまうのが日本だったりしませんかね?で、ブランドの価値が損なわれるかというと、そうでもなくて。
寛容かつ勤勉な日本人は案外、ミニバン=“僕のポルシェ”で得た絆をつたって、本来のポルシェのスピリッツに触れる人が増えたりして。
縮小するスポーツカーカテゴリーとともに滅ぶより、ミニバンというとっつきやすい器を通じてモータースポーツのスピリッツを伝えることで、その魂に共鳴する人を育成し、結果、「最高のスポーツカー」という価値がより広く理解される、みたいなことが起きてしまうのが、日本の面白いところのような気も、ちょっとだけするのです。(ちょっとだけなので青筋立てないように)

僕は、福岡伸一氏が「生命」を定義して使った「動的平衡」という表現が美しくてとても好きなのですが、文化に対するコアバリュの定義も、静的ではなく動的になされるべきではないかと思っています。つまり、その時々の環境や、人々との関係性の中でのあり方が、動的に同一性を保っていること。
もちろん、アイデンティティということで言えば様式は重要ですけれども、コアバリュはその中にある、見えない動体の持つ作用やポテンシャルではないかと・・・観音仏で言えばその形や種別よりも、「ありがたい」と信じて気持ちが救われるということであったり、ポルシェで言えば「スポーツカー」カテゴリーかどうかということより、アクセルを踏み込んだ際に感じる律動のときめきであったり、とか。
ちょっと抽象的ですね。すみません。

さて、競争とポジショニングの話。
これこそが、日本文化の現状を考える上で最も肝になるポイントではないか、というのは、(先日の納会で口裏を合わせておいた通り)まさに感じるところです。
数年前に世界規模で、現代人とエンターテイメントに関するリサーチを行ったことがあるのですが、そこではっきり浮かび上がったのは、「時間」こそが現代最も貴重な資源になりつつあるという傾向でした。
移動や通信の速度向上で時間と空間を有効活用できるプロセスが限界に近づき、爆発的に増加する情報量と1日24時間という絶対値の壁との間で、加速度的に貴重になる時間を何に割こうか、という人々の選択眼はますます厳しく、賢くなります。
この流れの中でマスメディア全体が苦境に立たされている。
先月行われたACCのシンポジウムでも、選択可能な情報量が10年で数百倍に増加したことを受けて、広告という情報の選択率が激減するのでは、という話がかなり危機的に語られていました。ある予測によると、2010年単年の世界のデジタル情報量は、これまでに書かれた世界のすべての書籍の1800万倍にものぼるとも言われています。
つまり、情報は圧倒的に届きにくくなって行く。時間はどんどん細切れにされ、みんながそれを奪い合う。勝ち・負けの差がはっきりつくようになる。
そんな中、どう戦ってゆけるのか。これは大きな課題ですね。

ポジショニングというのは、送り手側が勝手に決められるものじゃないですよね。力で押せるものではなくなっている。
結果として受け手の頭の中にどう位置づけられるか。そのために、何をすべきか。ちゃんとした戦略が必要です。

長くなって来たのでここらで振り返してみますか。
僕は、本質的な価値は変えずにポジショニングを変える、ということで競争力を高める、ということに可能性がある気がするのですが、そのあたりはどう思いますか?

※次回はこうぢ君の返信。1週間以内に返すがルールとなってます。お楽しみに。
※ご意見ご感想お寄せください。

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