連載

vol.11 別皿 東京「HIDEMISUGINO」杉野英実の「ランブロワジー」

1991年のことだから、今から30年も前のことになる。横浜のあるレストランで、フレンチコラボイベントがあった。いまでこそ珍しくないが、親しい料理人たちが集まって、それぞれが前菜、魚料理、肉料理を担当し、コース料理を組み立て、お客さんがシェフたちの個性豊かな料理を楽しんだのだった。そのフルコースメニューのデザートを担当したのが、神戸の杉野英実さんだった。
と言っても、そのときは杉野パティシエの名前は存じていなかった。デザートのチョコレートケーキが今まで味わったことがないほどに美味しく、この味を忘れたくないなと思い始めると、矢も楯もいられず、サービスの担当者に「このデザートがあまりに素晴らしく、もし、まだこのケーキがあるようでしたら、いただきたいのですが」と懇願してしまった。
そのとき、デザートのお変わりを申し出た客は私一人で、食べながら、デザート名「ランブロワジー」とシェフパティシエの名前「杉野英実」を頭に刻み込んだのだった。
「ランブロワジー」と名付けられたデザートは、正確にいうとチョコレートケーキではなく、なかにフランボワーズのジャムとピスタチオのムースを詰めたチョコレートのムースだった。そのチョコレートのムースでコーティングされた表面は、漆黒のような艶をもち、一点の曇りもない輝かしいフランス菓子だった。

このケーキに今一度出合いたいと、暫くして神戸・三宮の「HIDEMI SUGINO」まで出かけて行った。店でご本人にお会いすると「あなたでしたか、あの時、お替りを召し上がられたのは」と言われた。デザートのお替りは極めて珍しかったらしく、忘れずに覚えていらしたのだ。

私は1973年秋からフランスへ食べ歩きに出かけているのだが、フランス料理に関する本では、1980年に文化出版局から上梓した「パリのお菓子屋さん」が最初だった。パリのレストランをガイドするには、メニューの話やらチップの話などいくつか難しい説明がいるのだが、パティスリーと呼ばれるお菓子屋さんの紹介は、店頭でケーキを指さしすれば、手軽に買える。そこで、パリの名高いお菓子屋さんを取り上げた。モンブランで有名な「アンジェリーナ」 ガトー・オペラを初めて作った「ダロワイヨ」 チョコレートの老舗「マルキーズ・ドゥ・セヴィニエ」 飴細工の名人「トローニャ」 マロングラッセ「タンラード」などなど。じつは後年分かったのだが、杉野さんもこの本を手にされていた。彼の修業先「ペルティエ」も載っている。

杉野さんは阪神大震災の後、東京・京橋に進出した。私は早速、男性週刊誌などで紹介すると、洋菓子好きの男性が店の奥のカフェで、いくつものケーキを注文して食べていた。杉野さんはデパートなどからの誘いを一切断り、自らの目が行き届く範囲内でケーキを作るため、彼のケーキは京橋の「HIDEMI SUGINO」でしか味わえない。NHKの「プロフェッショナルの流儀」第1回に出てからは、毎日行列が出き、クリスマスケーキの予約日ともなると、何百メートルもの列ができてしまう。

ここで、「ランブロワジー」以外のケーキをいくつかご紹介しよう。
春なら「フリュイルージュ」:「フリュイルージュ」とは、「赤い果実」のフランス名。この菓子に使われているフランボワーズ(ラズベリー)とグロゼイユ(赤すぐり)を組み合わせたところから、この名前がつけられた。
フランボワーズは日本では「野イチゴ」という名前で親しまれているが、「赤すぐり」はそれほどポピュラーではない。でも、一度食べると、小粒ながら、その酸味の鋭さが忘れられなくなる。したがって、フランボワーズとグロゼイユは果物の酸味を生かすものとして、最強の組み合わせと言える。

夏なら「イリェウス」:チョコレートと言えばヴァレンタインが浮かび、真冬のイメージがあるが、このチョコレートムースの菓子は、パイナップル、ココナッツ、ライムが組み合わされて、真夏にぴったり。チョコレートとココナッツの相性はすぐに思い浮かぶが、パイナップルの酸味とライムの爽やかな香りもまた、チョコレートを引き立たせる名脇役であることがわかる。半分まではそのまま食べ進み、途中から注文したエスプレッソを合いの手に飲む。エスプレッソが上手に淹れられていることもあるが、チョコレートとパイナップルが微妙に変化して、不思議な余韻が楽しめる。普段は、お菓子をいただいてから、締めにエスプレッソを飲むのだが、店内でいただくエスプレッソは本場イタリアのバールで飲む一杯と変わらぬほどの美味さである。

秋なら「ポワリエ」:洋梨と栗という秋ならではの果物の組み合わせ。洋梨の品種といえば「ラ・フランス」「レクチュ」がよく知られている。いまから40年も前、フランスのリヨン近郊で、洋梨の樹になる熟した実にガラスの瓶が被せてある光景を見た。それが「ポワール・ウィリアム」という洋梨のリキュールを作る元の仕掛けだったことが分かり、嬉しくなったことがあった。栗といえば、フランスでは「マロン」と「シャテニィエ」という二つの言葉があるが、その違いは、いがの中に一つ大きな栗が入っているのが「マロン」で、二つに分かれて詰まっているのが「シャテニィエ」だと、フランス料理のジョエル・ロブションさんに教わった。この二つの秋の実りが精妙に組み合わされたお菓子が「ポワリエ」。軽い洋梨のムースと肌理の細かな栗のムースが口の中で溶け合う時間が楽しめる。

冬なら「ソフィア」:毎年テーマを変えて新作を発表する「HIDEMISUGINO」の クリスマスケーキ、2018年は「Sofiaソフィア」。なめらかで穏やかなヨーグルトムースに覆われていた中から現れてきたのは、ミックスフルーツのムースなのだが、いただくと尖った酸味に渋みと苦みが隠されているのが特徴で、これが、香り高いレモンのジュレ。このレモンのジュレが絶妙のアクセントを加えている。「ソフィア」の命名の由来は、単純明快、ヨーグルトはブルガリアだからとのこと。

現在は、コロナ禍で店内ではケーキをいただくことはできない。まだ召し上がったことがない方、ぜひとも足を運んでいただきたい。私にとっては、世界一のケーキである。

 

[連載一覧]山本益博・我が人生の十皿
・00 はじめに
01 東京「たつみ亭」荒木保秀の「上かつ」
02「みかわ是山居」早乙女哲哉のはしらのかき揚げ
03 東麻布「野田岩」の筏の蒲焼
04 銀座「すきやばし次郎」のこはだの握り
05「吉い」吉井智恵一 鱧のお椀
06 東京「コートドール」斉須政雄の「しそのスープ」
07 気仙沼「福よし」村上健一のさんまと吉次の塩焼き
08 柏「竹やぶ」阿部孝雄の そばがき
09 三ノ輪「トイ・ボックス」山上貴典の醤油ラーメン
10 京都「浜作」森川裕之の「鯛のお造り
・11 別皿 東京「HIDEMISUGINO」杉野英実の「ランブロワジー」