連載

vol.06 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(2)

◆調和の国――
紀州道成寺に伝わる安珍清姫伝説を素材とした能「道成寺」は、乱拍子と言われる小段で知られています。乱拍子は、シテによる特殊な舞事で、小鼓が独特の演奏を披瀝します。二十分ほどつづく小鼓の独奏。気迫を込めた掛け声と鋭い打音の間に、きわめて長い(ラジオ放送では無音の放送事故になったという)沈黙の時間を置き、シテの所作は打音や掛け声と同時に足を小さく踏み出したり爪先や踵をわずかに上げ下ろすだけの極限にまでそぎ落とされた動きです。増田正造が「極北の演劇」と呼ぶ能の、複雑化へと進む西洋のそれとは逆に進化した日本の舞踊劇の真骨頂です。この削りに削った表現があるからこそ、能はあらゆる解釈を可能にしている。乱拍子について、源次郎先生が語ります。

「道成寺の乱拍子が何を表現しているのか。その答えは、受け取る人によって千差万別です。長い時間の経過を一瞬に凝縮する微速度撮影のカメラを思う人もいれば、ほんのわずかな時間の経過を永遠とも思えるほど引き延ばすスーパースローカメラの映像を見る人もいる。日高川を臨む山寺を吹き抜ける風の響きを見る人もいれば、安珍を思う清姫の切ない恋心を聞く人もいる。それはまるで、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックが生んだキュビズム絵画のように、鑑賞者に多様な解釈を許す前衛芸術のような表現なのです」もっとも能の「道成寺」の成立は四百年以上は前の話ですから、ピカソやブラックのキュビズムより遙か昔の話ですが。

「道成寺の乱拍子に限らず、能の舞台は「多様な解釈」が許されます。理解も共感も人それぞれ。能のことを、型にはまった、逸脱を許さない、頑迷固陋な芸術と思ってはいけません。それは、驚くほど自由な芸術。乱拍子が何を表現しているのか。そこに何を見て、何を聞いて、何を感じるのか。それはあなたの自由のままに。すべての解釈を許し包み込み、すべての思いを並列に共存させて、乱拍子は成立する。能楽堂に集うすべての人々が共に創り上げるハイブリッドアートなのです。だから能は、受け手の度量と感性が問われてしまう。能は難しい、と言われるゆえんです」

能は、受け手のこうした多様性を受け入れながら、一方で、送り手の多様性をも受容します。例えば、能のリズム型にある「拍子不合」のこと。源次郎先生は語ります。

「これはね、不思議なんだけど、お囃子(大鼓や小鼓など)のリズムパターンと、謡(シテ方や地謡の歌や語り)のメロディーパターンをリンクさせてないんですよ。一切合わせてない。けれど、こちらはこちらでやって、あちらはあちらでやっていくと、調べも拍子も全体としては見事に調和するようにつくってある。個々の表現に没入しながら、全体として大きな調和をもたらす。

鼓が主導する拍子の概念も、まさに多様です。そもそも、日本の音楽の場合、一小節のなかの拍の長さは必ずしも均等ではありません。三拍子や四拍子といった単純で均等なリズムで進行する合奏のための音楽に比べると、日本のリズムは遙かに複雑なものです。こういう作曲手法を古来の日本人が持っていたというのは、本当に驚きですよね。型にはまっているように見えますがる、実はとても自由であり多様なんです。

能の謡や囃子の拍節(リズム)は「八拍子」という基本の単位があり、八拍で一句となります。ただこの「八拍子」の割り付けは常時等間隔というわけではなく、自在に伸び縮みする。しかも、その伸縮程度が定量ではなく、時と場と人によって、ほとんど無限のバリエーションがあります。こうした自由な拍節は、もちろん能にかぎったことではありません。

例えば、童謡「かごめ」の歌い出しは「かごめ、かごめ、籠の中の鳥は」ですが、最初の「かごめ」と二番目の「かごめ」は拍節が違います。最初の「か」は長くて、二つ目の「か」は短い。自由であり、多様であります。「江差追分」で有名な民謡の拍節などは、西洋音楽の譜(五線譜)に置くことが不可能なほど高等で難解です。小泉文夫の著書『日本の音』によれば「追分様式のリズムでは、各フレーズの長さはまちまちで、等拍の単位で何かが反復されるというわけではないが、(中略)我々(日本人)はそこに大きなリズムを感ずるのである。手拍子を打ったり、足並みをそろえたりして、リズムを感ずることはできないが、体全体で、ゆったりとした大きなリズムの波を感じて、フレーズの終りで『ハイ、ハイッ』と掛け声をかけたくなるような気分になるのが追分リズムである」

もう一つ、日本の人々が持つ多様の調和を是とする思想の結晶が、その宗教観に見えます。神仏習合と呼ばれる、世界でも類を見ない我が国独自の現象がそれです。神祇と仏教という本来は相いれがたい二つの宗教を、日本人は見事に並立共存させます。権現思想・垂迹思想による神と仏の両立。『権現とは、仏が化身して日本の神々となって現われたことを指す語であり、垂迹は、仏や菩薩が衆生を救うために、日本の神々になって現れるという意である。したがって、両者は相関連する語であり、垂迹の結果として出現した神が権現であるということになろう』(逵日出典「神仏習合」)この思想は能に引き継がれ、能楽における宗教多様性に結実します。源次郎先生は語ります。
「神々が集い、仏さまが笑い、修験者が闊歩する。能の世界ではすべての宗教が平等に受け入れられています。キリスト教に題材をとった能まであるのですから。基本の考えは、神も仏も同じものなんだ、ということ。どちらかを排除したり吸収したりするのではなく、どちらも認め共存させ調和を図り、翁のような笑える老後(未来)を創ろうという芸能が生まれた。日本人は、みんなが仲良くなる方法を知っていたのです。これはまさに今、世界に必要な全人類理想の哲学ですよね。

生物の多様性が保たれていたから、地球上の生命は何世代にもわたってその存在を継続させることができている。人間の体内には百兆を超える数の細菌が住み着いていて、その多様な機能と器質が、私たちの健康を司っている。地球にとっても人間にとっても、すてきな未来へのキーワードはさまざまな存在の「調和」なのです。白州正子もその著書『両性具有の美』に記します。『昔の人たちは(個性なんか求めず)周囲の環境といかによく調和しているか、そのことだけを美しいと見たのである』と」

日本の文化芸術はずっと昔から、多彩な表現とその見事な調和にあふれています。さまざまな解釈をすべて受け入れ、多様な存在をありのままに組み込み、異なる個性をも柔和に包み込む。すてきな未来を先取りしているのが、この国の芸術文化の有り様なのです。こうした日本芸術の思想を源次郎先生は次のように考えています。

「僕が言いたいのは、つまり「和を以て貴しとなす」ということ。我々にとって「和」という言葉は非常に重要でね。僕らは音楽家なので「調べ」を基準に考える。調べという語を含む言葉に「同調」と「調和」がある。この二つは、似ているようでその意味するところがまったく違う言葉なのです。
同調するというのは、皆が同じ調べになるということ。これは意見を一つにしましょうということです。みんなが同じ意見に同意しないといけない。例えばオーケストラの楽団員は、同じ音、同じリズムで合わせないとだめです。それが「同調」です。それに対して「調和」というのは、さまざまな音やリズム、多彩な調べが和するのであって、一つの調べに統一するのとは違います。楽器の音や人々の声が、それぞれの調べを奏でるのだけれど、それが全体として統合されている。多様性とその調和のことを言っているのですよね。
能における囃子と謡は、同調していないけれど調和している。だから、指揮者の元に全体を同調させる音楽より、ずっと自由なのですよ。異なる個性を否定することなくヒエラルキーもなく並列的に認め合い、同時に互いが全体をしっかりと意識しながら調和する。素晴らしい価値観だと思いますよ」

 

[連載一覧]田中康嗣(和塾 理事長)・日本の宝 日本を語る
01 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(1)
02 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(2)
03 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(3)
04 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(4)
05 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(1)
・06 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(2)
07 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(3)
08 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(4)