連載

vol.01 赤の起源

日本にはたくさんの色の名前が存在する。300以上とも400以上とも言われるその名前は、それぞれに意味があり、微妙な色彩の違いであらわされる。世界的にもこれほど色の名前が多いのは類例をみないという。小さな島国である日本に、何故これほどにたくさんの色の名前が存在するのかというと、自然風土の豊かさが何よりの要因であると考えられる。
日本には四季があり、それに伴って植物の色彩は移り変わり、景色の色が緩やかに変わる。人々はその色彩の変遷を豊かな感性でとらえ、楽しみながらその色を歌に詠み、その色について文をしたため、その色の衣を纏っていた。またそれぞれに美しい色名を冠し、こまやかな感性で色彩を楽しんできたのである。

色の数はいにしえから300以上もあったのではもちろんなく、時代の移り変わりと共に少しずつ増えていっている。その色名すべてを網羅するのは大変難しいことであるが、少しずつ日本の色を見つめなおす機会になればと思う。

そもそも人間が最初に色を認識したのは、「赤」と「黒」の二系統の色であろうと考えられている。太古の時代は、現代と違い電気もない状態で生活を営んでおり、太陽の存在がすべてを支配していた。太陽が昇ることによって夜が「明け」、沈むことによって日が「暮れる」。その空の様子、自身を取り巻く様子から、「明け」が赤系の色となり、「暮れる」が黒系の色と認識されたのだという。
また、その時代、人間は火をおこすことを発見し、狩猟採集しながら食料を調達していた。それらを火をつかって焼く、あるいは煮炊きする、そして自分たちの体を温めることを可能にした。更に、土やそのなかに含まれる鉱石を使い、練って、火で焼成することで器を生み出すこととなる。器の色は最初は素焼きに近い素朴なものであったが、次第に縄文土器のように装飾を増やしていったり、土の中に潜む金属化合物である朱や弁柄で彩色し、装飾する美しさを生み出している。黒は、煮炊きをして土器の底についた煤を使って作られた墨で、彩色する形であらわされていた。

火の色も、また、赤である。更に人間の体の中を流れる血も、また赤の色をなしている。「太陽、火、血」この3つが、人間が生きるために不可欠な「赤」であり、人間にとって神聖なものであると考えらえていたのであろう。


弁柄(イメージ)

 邪馬台国のことを記した『魏志倭人伝』には「朱丹を以ってその体に塗る。中国の粉を用いるが如し。」「真珠・青玉を出だす。その山には丹あり。」とある。丹とは朱のことである。朱丹、丹とは朱のことを表す。中国でおしろいを体にぬるように、邪馬台国に暮らす人は朱を体にぬる。その朱は山にある、ということを記している。

いまだ邪馬台国がどこにあったのか、確定はされていないが、畿内説で考えると奈良県吉野山の周辺はかつて朱を豊富に持っていた地域であった。現在は採掘する朱は残っていないが、この吉野周辺には、丹生川が流れ、当時採取したであろうと考えられる場所に、丹生神社、丹生川上神社など、丹生という言葉のつく神社が数か所存在する。


丹生川上神社

弥生時代から古墳時代にかけては、墓室内へ朱を塗るという習慣や、死者の再生を願って遺骨へ朱を塗るということが行われていた。土器や土偶にも朱が施されているものが見つかっている。やがて大陸から建築様式がはいってきて、宮殿や寺院伽藍、そして神社もまた、赤く彩色されるようになった。それまでの神社の鳥居や建築物は素木のまま建てられることが基本となり白が清浄なる色とされていたのだが、寺社の色彩が色どり豊かとなったのは大陸から仏教が伝来したのが由来と考えられる。

赤に畏怖と畏敬の念を感じながら、祈るような気持ちで彩色していたのであろう。魔除けの色としても使用することも多く、赤は人間の生命を司る色なのである。