中村吉右衛門

なかむらきちえもん

二代目中村吉右衛門(にだいめなかむらきちえもん)1944年〈昭和19年〉5月22日生まれ。日本の歌舞伎役者。歌舞伎名跡「中村吉右衛門」の当代。屋号は播磨屋、定紋は揚羽蝶、替紋は村山片喰。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。身長178cm。ふたご座B型。

1944年五代目市川染五郎(後の初代松本白鸚)の次男に生まれる。母・正子は初代中村吉右衛門の一人娘。兄は二代目松本白鸚。甥は十代目松本幸四郎、姪は松本紀保と松たか子。
初代吉右衛門は一人娘の正子に婿養子を取ろうと考えており、なかなか嫁に行くことを許さなかった。いよいよ結婚する際、正子は「男子を二人は産み、そのうちの一人に吉右衛門の名を継がせます」と約束した。その通り二人の男の子が生まれ、約束に基づき、次男の久信は4歳で初代吉右衛門の養子となった。
1948年(昭和23年)、中村萬之助を名乗って初舞台。この芸名は吉右衛門の祖先・萬屋吉右衛門にちなんだものだった。「初舞台の口上で、初代が「この子を養子に迎えて跡を継がせる」と述べ、戸籍上も藤間久信という名前から祖父の波野姓に変わる。
翌年萬之助は『山姥』の怪童丸の演技で毎日演劇賞演技特別賞を受賞。天才俳優として注目される。
市川團子(のちの市川猿翁 (2代目))、兄の市川染五郎との十代のトリオで、「十代歌舞伎」とよばれ、人気を博する。
1949年(昭和24年)、実父八世松本幸四郎の襲名披露公演に出演。
1954年(昭和29年)、祖父かつ養父・初代吉右衛門が死去。
1961年(昭和36年)、実父と兄と共に、松竹から東宝に移籍し、1966年(昭和41年)、二代目中村吉右衛門を襲名。東宝では歌舞伎のほか、現代劇、ミュージカル、名女優の相手役なども務めたが、その後、1974年(昭和49年)、歌舞伎に専念したいという思いが募り、松竹へ復帰した。
歌舞伎では外祖父の初代吉右衛門と祖父の七代目松本幸四郎の両者の当たり役を継承。時代物では『仮名手本忠臣蔵』の由良之助、『勧進帳』『義経千本櫻』の弁慶や平知盛、『菅原伝授手習鑑』の松王丸や武部源蔵、『平家女護島』「俊寛」の俊寛、『梶原平三誉石切』の梶原平三、『絵本太功記』の武智光秀、『松浦の太鼓』の松浦公、世話物では『籠釣瓶花街酔醒』(籠釣瓶)の佐野次郎左衛門、『天衣紛上野初花』(河内山)の河内山宗俊など。そのいずれもが口跡の良さと重厚な演技で存在感があるが特に時代物に本領を発揮する。1975年(昭和50年)東京のホテルオークラにて結婚。夫人との間に4女をもうける。
1996年10月 – 海外公演(香港)、計3回公演。「鳴神」
2002年 – 日本芸術院会員に。
2006年9月 – 歌舞伎座にて初代吉右衛門の俳名を冠した「秀山祭」をはじめる。以後毎年恒例に。
2008年9月 – 関西学院大学文学部客員教授就任。
2011年 – 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
2017年 – 文化功労者に。
末の娘(四女)が五代目尾上菊之助の妻となり、2013年11月に第1子となる男児を出産。2019年5月、尾上丑之助 (7代目)として初舞台を踏み、吉右衛門は孫との共演を果たした。