第百七十七回本科お稽古 春日大社~1300年続くお祭り

今から約1300年前に創建された春日大社。春日山原始林と共に「古都奈良の文化財」としてユネスコの世界遺産に登録されています。“春日造り”と言われる独特の建築様式のご本殿は国宝でもあり、昨年2016年に20年に一度の式年造替が行われました。その歴史の深さと伝承はいつくもの「発祥」、「最古」、「世界唯一」を含んでいます。奈良より藤原家の子孫であり春日大社宮司の花山院様をお迎えし、春日大社の1300年の間途絶えることなく続けられた祭りについて勉強会を開催いたしました。

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日時:2017年10月19日(火) P.M.7:00開塾
場所:六本木・国際文化会館
講師:春日大社 宮司 花山院弘匡
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春日大社とは、約1300年の昔、奈良に平城京ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を御笠山にお迎えしたことからはじまります。そして768年に天皇の勅命によって左大臣藤原永手によって、社殿が建てられました。この768年が創立とされています。香取神宮から経津主命様、また枚岡神社から天児屋根命様(アメノコヤネノミコト)・比売神(ヒメオオミカミ)様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀りしました。

第一殿:武甕槌命様・・・・鹿島神宮(茨城県)より
第二殿:経津主命様・・・・香取神宮(千葉県)より
第三殿:天児屋根命様・・・枚岡神社(大阪府)より
第四殿:比売神様・・・・・枚岡神社(大阪府)より

●第一殿と第二殿
第一殿と第二殿の神様は武神です。当時茨城・千葉は日本(大和政権)の最前線の地。それより北は蝦夷の地であった為、大変強いお力が発揮された「武」の神様をお祀りしていました。平城京をお守りするために、「武」の神様をお招きしたというわけです。

●第三殿
第三殿の神様は、天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を唱えたと言われる神様です。中臣氏・藤原氏の氏神様にあたります。平城京建設の中心人物、藤原不比等。不比等の父中臣鎌足は晩年に天智天皇より藤原姓を賜ったもので、もとの中臣氏は神様と人々の仲を取り持って祝詞を奏上する一族でありました。今も全国の神社で奏上される大祓は、中臣祓が基になっています。春日大社ではお祭りで祝詞が奏上されますが、それに加えて、東北の震災以降、復興のための毎朝「大祓詞」の奏上が行われています。この国難、どうしても助けていただきたい、力を貸していただきたいとの想いでお祭り以外でも数多く祝詞を奏上する。これは萬度祓いといって「これだけお願いしたいのですっ」という気持ちを神様に伝える行為だそう。震災直後に春日大社のご神職はじめ神社職員の方々のみではじめられました。そうすると心を痛めている多くの方が一緒に奏上してくださるということで、今は一般のかたも毎日20~50人くらいの方がお見えになって一緒に奏上しされているそうです。昨日までで約19万回、毎日皆様と祝詞を奏上し一日も早い復興をお祈りしている。
もともと、春日大社は国家鎮護、国家国民の為にお祈りするために創建された春日大社、このような事をしていると、これが春日大社の本質であるなと実感されるそうです。
特別な日以外は毎日しているそうなので、もし春日大社にいく際にはHPで確認をして、一緒に「大祓詞」を奏上してみるといいかもしれません。

●第四殿
第四殿の神様は大変美しい女神です。夫婦の神様。平安時代までは天照大神様だったと言われています。
ちなみに12月に行われる有名なおん祭りは本殿とは別の若宮神社のお祭です。
若宮様は第四殿の比売神様からお産まれになり、第三殿の天児屋根命様と比売神様の御子神であると言われています。ですので

若宮社:奈良生まれ

となります。

話を戻してご本殿の四柱、いずれも藤原家と大変深い関係の神様です。
藤原道長の孫、関白藤原師実の次男の家忠が花山院家を設立され、現宮司の花山院先生の家祖にあたります。
お父様も春日大社の宮司を努められ、小さい頃から春日大社と共に過ごされていらっしゃいました。毎日鹿のそばを通られながら通学されていたそうです。

そのご本殿、昨年二十年に一度の式年造替が完了しました。社殿は日本で唯一高価な本朱のみで塗られ、美しい深みのある朱色は御力と清々しさを感じさせる発色であります。平城京の各建物もすべて朱色で塗られていて、生命の美しさ力強さを表す朱色は尊い所に使う色だそう。朱色の社殿としては日本の中でも最も早く取り入れた神社の一つと考えれています。

冒頭の記述の通り、春日大社の出発点は御笠山に神様がお宿りになったことから始まります。
神様は美しい物に宿るとされ、都の東に美しくなだらかな独立峰である御笠山は信仰の対象でありました。都の人々は御笠山、春日山からの日の出を拝み、一日の始まりとしていました。ですので、山自体が神様です。社殿を建てる時も、山を削ずらずに、山の斜面に添うように建て方を工夫しています。しかし見た目一律に屋根が揃っていて、まるで平面に立てているかのようです。この建築、とても難しく手間がかかりますが、それでも山は削らないのです。

実は第一殿と第二殿の間は約40cm位あるのです。

そんな尊い存在の春日大社。歴史上の数々の戦乱で奈良の多くの寺院に火が付けられる中、春日大社だけは一度も戦火にあったことがないそう。お寺は僧兵など、政治と絡みやすい場でもありました。身近な存在の仏教に対して、神様は自然をつかさどっている存在でそこには「畏れ」の感情があり火はつけにくい。なので建物の配置も昔のまま変わらないのですね。春日曼荼羅に描かれている配置が現在もそのまま残っているのです。

さて、日本で最初シリーズその1、日本最初の神社常駐の巫女。
神様に舞をささげたり、呪術したり、お願いごとを聞く巫女さん。
もともと日本神話に出てきたり、実際には全国村々に存在していました。
村々の巫女さんは若い人だけではなく年配の人もいました。
神社における日本最初の巫女神楽の記述は、平安初期920年、宇多法皇が春日大社へ行幸の折に、大和国司が美しい巫女たちを集め、春日の神様と法皇の前にて舞ったものが残っています。もともと神社ということころには巫女さんはいなかったのですね。
それから約100年後、平安後期、1135年、新たに出現された若宮様新しい御殿へご遷座され、若宮神楽所、拝舎、手水舎が建設されました。この時神社初の常駐巫女が誕生したと言われています。もともと春日大社は、国家国民のためにお祈りするためにあるので、個人のお願い事を聞くとことはしなかったのですね。しかし、この神社ができたとき、特別に巫女さんが個人の願いを聞いてあげようということで始めるんです。巫女が舞を踊る。当たり前ですけど、大人気になる。朝から晩まで大勢の人がきてお願いごとをする、今でいう御祈祷場ですね。巫女は社家の妻子や神領の娘でしたが、ご祈祷の際に収入がありました。その人気は高く、春日の巫女は日本初のキャリアウーマンでもあります。

春日の巫女の舞は顔より上に手があがりません。現在多くの神社で舞われている「浦安の舞」で昭和16年に作られた神社界において代表的な神楽舞です。こちらは動きが大きく近代的でダイナミックな男舞的な美しさ。一方春日の舞は動きがゆっくりと小さく優美で上品な女舞的な舞。神様に対して大胆になるのは失礼といった約1000年前の感覚作られ、作られた時代の差がみられます。ここからも分かるとおり、全国の神社で巫女が常駐になったのは、ここ70年くらい前のこと。春日大社は約900年前からいるのです。
明治維新の際、明治政府は神楽を禁止しようとします。なぜかというと、呪術的な文化は途上国に思われるから。ほとんどの巫女は村々にいたのですね、村でお祈りしていた。で、その時、春日の神主がそれはおかしいと、平安時代以降宮中に則ってやっているのに、それがそういうたぐいのものではないっ、と訴えて許可を得るのです。なので、春日の神楽だったらOKということで、春日の神楽を日本中に教えに行きます。金刀比羅宮、出羽三山神社などに春日の舞が残っています。

日本で最初シリーズその2、能の発祥の地。

能舞台の後ろの鏡板に描かれている松は、春日大社参道の一の鳥居をくぐった右側にある影向松(ようごうのまつ)。春日では能を古名の猿楽と呼んでいます。
奈良時代などは散楽と言われ、雑多な曲芸も交わるような芸能であったようです。平安時代には猿楽と書かれるようになり、「面白い言葉」や「滑稽じみている」などの意味があったようです。1132年春日若宮おん祭が始まった当初より、猿楽が舞われていました。
このため、現在でもおん祭では能とは呼ばず、猿楽と呼ばれ、舞われます。
焚火の明かりで能を観る「薪能」というものがありますが、これも春日発祥です。
神聖な春日山から折れた木枝を頂き、その尊い薪を焚いて、ご神気の漂う幽玄な明かりによって神仏へ奉納する能楽のことです。
ちなみに「芝居」の語源は春日にて芝の上で芸能を見ていたことからきています。
芸能の神様と言われるだけあって、春日では沢山の芸能が奉納されています。

そのほか、日本最初の車庫であったり、日本で最初に酒税を払ったり、とにかくその歴史の古さと人々が大切に守ってきた歴史から、発祥が継続して残っているのです。
舞楽、雅楽も、シルクロードの終着点として1300年以上前に春日に伝わってきましたが、それを伝えた中国、朝鮮半島諸国、ベトナムなどすべての国では廃絶してしまったにもかかわらず、唯一現在でも日本だけに残っています。宮廷文化と神仏の信仰の為に大切に演奏されてきたからです。それだけ日本人は神様を大切にしてきたのですね。

最後に、原生林のお話。春日のご神山である三笠山、春日山は原生林が残っています。全国の県庁所在地である都市の中で原生林が残っているのは春日だけ、また世界的にみても30万の都市で原生林が残っているのは春日だけなのです。それだけ、春日の人々はご神山を厳格に守ってきたのですね。あの伊勢ですら、江戸時代お伊勢参りが盛んになった際には、周りの山がはげ山になったとの記録があります。木々は暖をとったり、ご飯を炊いたりするのに不可欠で、燃料となるため人々の生活になくてはならないものです。建築材としても使います。村ができ、人が集まると、木々は伐採されてきます。春日も都市ですし、春日詣に来る人もたくさんいました。しかし、神様が宿るご神山は今でも大切に守れています。
都市に住む人々は、人間は自然の一部であるということを忘れがちでありますが、自然と調和して自然を尊ぶ精神が、土地の神様を大切にする神道に生きて、現代の我々にも大切なことを教え伝えてくれているような気がします。

春日大社宮司の花山院様、権禰宜の阿部様、どうもありがとうございました。