浅草寺本坊「伝法院」での春の茶会を開催しました

知る人ぞ知る浅草寺の本坊「伝法院」。国の名勝に指定されているのですが、非公開のためその存在を知る人はとても少ない。和塾による春の茶会は、この常は非公開、入場禁止の伝法院を借り切っての開催となった。ご指導は、これも江戸東京の茶道流派として知られる「江戸千家」の十代、名心庵宗雪家元。いつものように「最高峰の和文化体験」としての和塾の茶会。贅沢でまたとない春のひとときとなりました。

会場となった大書院から庭園をのぞむ。

伝法院大書院

会場となった浅草寺本坊「伝法院」について以下に。ここには、安永6(1777)年建築の客殿や玄関、明治4(1871)年築の大書院、浅草寺貫首(かんす)大僧正のお居間などがあり、「伝法院」という名称は、それらの総称。もとは観音院、智楽院などと称したのですが、元禄(1688年〜1704年)以後この名が付けられたといいます。客殿に阿弥陀三尊をまつり、その左右に徳川歴代将軍のうち歴代11名の位牌及び浅草寺各世代住職の位牌が安置されています。回向道場として追善法要や、伝教大師忌の「山家会(さんげえ)」天台大師忌の「天台会」などの論義法要が行われ、浅草寺の修行道場でもあります。特筆すべきは、約3,700坪の庭園。寛永年間(1624~44)小堀遠州により作庭されたと伝えられる「廻遊式庭園」です。

庭園に佇む茶室「天祐庵」

庭園内には、今回も本席として使った、茶室「天祐案」があります。この茶室は、天明年間(1781~89)の作で、名古屋の茶人である牧野作兵衛が、京都表千家の「不審庵」を写してつくったもの。間取りは三畳台目、本勝手の席。客は躙り口と呼ばれる小さな入口から入ります。これは席入りの際、狭い室内を広く感じさせる効果を持っています。亭主の座る畳は一畳の四分の三の大きさ(台目畳)とし、さらに点前座と客座の間に中柱を立てて袖壁をつくり、客と亭主の間をほどよく隔て、客座から見ると亭主の所作が舞台のごとく見えるように工夫されています。これらの形式は千利休の創案によるものと伝えられています。また、茶道口には一般に片引きの太鼓張襖が建てられるのですが、天祐庵では不審庵特有の片開きの太鼓張襖が踏襲されています。また不審庵と同様に点前座の風炉先に茶道口を設けており、亭主は茶道口から茶室に入ると一度向き直って座る形式となっています。そのため点前座の脇には脇板(板畳)を入れて広さを補い、また向き直る際、壁を擦らないように、高さ一尺四寸二分の所まで袴擦りの腰板を入れています。天井は小さな空間であるにもかかわらず細かく分けられていますが、これにも意味があり、床の間の前は貴人である正客が座る位置であるため平天井を張り、躙り口のまわりは相伴の客が座るため格の低い化粧屋根裏となっています。また亭主の座る点前座も謙遜の意味を込めて化粧屋根裏となっています。窓の配置も灯りがほどよく行き渡るように工夫されています。このように天祐庵には細心の配慮が随所にみられ、すぐれた茶室であることを示しています。なお屋根の形は天祐庵独特のものであり、不審庵とは様式を異にしています。

天祐庵広間の設え

大書院の格天井

宗雪家元を囲んで