日本文化市場論 第十三話

第一章:和のブランド価値
→目次
第二章:和の競争戦略
→第九話「洋と和のポジション」
→第十話「維新の罪」
→第十一話「弱さと柔らかさと」
→第十二話「非多様性市場の憂鬱」

日本文化について考えてみる。第十三話

お久しぶりであります。ちょっと、まあ、いろいろあって、久しぶりの日本文化市場論。
前回までの議論、忘れちゃいました? そんな人は、思い出すまで再読してください(笑)。

工業化社会を支える近代マーケティングは、市場をできる限り統一しようとする力学を働かせます。全体的意志がそうであるから、この力に抗するのは非常に難しい。この力学のもと、世界中のさまざまな民族文化・地域文化がその市場内地位を急激に低下させたのじゃないか。てのが、前回第12話で提示されたこうぢ君の見解。

受けてトール君、この論から何を導き出すのか? 日本文化のポジショニング論、いよいよ佳境に入っていきますよ。

こうぢ殿

拝啓
いやあ、すっかり間が開いてしまいました。面目次第もござらん。

さてさて、奇しくも2010年は国際生物多様性年。企業経営でもここ数年、ダイバーシティ・マネジメントがホットなトピックになっていたり、(それも企業の社会責任の文脈ではなく、グローバル市場での競争力の文脈で。)医学・健康領域でも、たとえば腸内環境や肌の健康について、やたらなんでも殺菌するのではなく常在菌の健全なバランスを保つ、フローラという概念の重要性が改めて問われている。
多様性の豊かさという概念は、いろいろな領域でグローバル社会の未来へ明るい指針を与えてくれる、大きなパラダイムとなりそうです。貴殿の考えは、むしろこれからの世界の思想の主流を言い当てていると思いますよ。

さて、ご指摘の点、まさにその通りだと思います。オートメーションという産業技術が可能にした大量生産のシステムで、作られたものを汎用品として広く普及させれば大きな利潤を得られる。そしてこうしたフォーマット型の商品が受け入れられるような「場」を整備したのが近代マーケティングですからね。世界を一つの価値観に染めて、世界中が同じものを欲しがるようにし、そこに量産品を大量にばらまけば、巨額の富が得られる。こうした近代のビジネス作法においては、ローカリティはコスト要因でしかないから排除するに限るわけです。
そして、テレビに代表されるマスメディアという強力な武器が、いわば価値観のオートメーション化を推進した。あたかも工場のラインに乗せられ、鋳型で成形されるように、ジーンズをはいてコーラ片手にハンバーガーを食べながら歩く、アメリカ人のコピーみたいな若者が大量生産された。それが「かっこいい」という価値観は、ほとんどマスメディアによって「新しい常識」として植え付けられたものでしょう。まあ、あえて「洗脳」という言葉は避けますがね。
機械化された近代工場は職人を駆逐し、マスマーケティングは日本の伝統文化を駆逐していった。このタッグが、焦土の日本を欧米色に染めていった。
極論すれば、そういうことになるのでしょうね。

ポジショニング戦略は、机の上では相手とこちらの位置関係を相対的に動かして考えますが、実行する際は、相手の側を動かすことを考えても実際にはあまり役には立たない。恋人が別の男に走った時に、その相手をおとしめても、恋人がこちらに帰ってくるとは考えない方がいい。反・洋キャンペーンとか、洋を悪しきものとしてリポジショニングすることに力を使っても、和のポジションが上がる保証はどこにもないと思いますよ。だから、純粋に「和」そのもののうまいアピールを考え、その価値の今日的な絶対値を上げることに集中した方がいい。
なんだかんだ言って「洋」は、日本人が自分の自由意志で選択したものですからね。無理矢理押し付けられたわけじゃない。
人為的に持ち込まれた外来生物の排除みたいなわけには行きませんや。

では、「洋」のポジショニングはなぜこれほど受け入れられ、成功したのか。そこを考察してみると、「和」の逆襲のシナリオを描くヒントが得られるかもしれません。

ひとつには、前回述べたような国民的な屈辱感があったと思います。
国際企業のビジネス戦略も、大いにあったと思います。
しかしやはり決定的だったのは、急速に発達したマスメディアのコンテンツとして大量に紹介された欧米式のライフスタイルが、非常に魅力的にプレゼンテーションされたことにあったのではないでしょうか。

戦後、テレビという夢の家電が各家庭に導入されて、みんなが夢中になってこれを見た。セールスの殺し文句は「家でプロレスが見られる」だったと言いますが、力道山が空手チョップで大きな外人レスラーを倒す、という「物語」は、敗戦のうっぷんを晴らし傷ついたプライドをくすぐる、ある意味健全な(笑)娯楽だったと思います。
ところがテレビは同時に、甘い麻薬も運んできた。それは「奥様は魔女」のような、ソープオペラとも呼ばれたアメリカ製のホームドラマで、そこでは豊かなモノに囲まれたアメリカ人の生活がとても素敵に描かれていた。人々は、テレビに出てくるかっこいい俳優たちや生活感のない住居空間が、アメリカの中流家庭の真実だと錯覚してしまった。(僕自身も、高校生くらいまでは外人=アメリカ人=金髪で青い目でスタイルがよく美しい、という基本認識でいましたから。だから初めてアメリカに旅行した時、肥満体の人があまりに多くてびっくりしたのだけど。)
このもうひとつの「物語」が、敗戦で指針を失っていた多くの日本人に、鮮明な、新しい未来のイメージを与えました。
そして、思うに、こうしたドラマの演出や台詞まわしの洒脱さには、江戸の「粋」に通じるところもあったのでしょうね。それもあって、この生活イメージは多くの日本人の心に刺さった。特に「サザエさん」に象徴される近代的な感覚の女性達の心をおおいにくすぐり、「こんな暮らしを目指そう」という強い欲求が生まれた。
そう、この段階で、マスマーケティングの術にまんまとはまりこんでしまっているのですね。そもそも「ソープオペラ」という呼称からして、大量のTVCMをマーケティングツールとして使い始めたのがP&Gだったことによるものですから。
そしてさらに、ここに日本の国策が重なった。
経済成長のためには、地方から東京に大量の労働力を集中させる必要があった。国としては彼らに、この過度な人口密度の中で快適な暮らしも与えなければならない。そして、「狭いながらも楽しい我が家」を実現(錯覚?)させるために住宅公団がとった天才的な戦略が、LDKというアイデアを中心にした、洋風の「あの」ライフスタイルを実現する住宅の提供でした。実際、このころの公団住宅の設計は、その後のあらゆる近代住宅のお手本となったとも言われています。
そして、そこでかろうじて残された「和」の要素は、せいぜい畳六枚分くらいの、申し訳程度の和室がひとつというものでした。
騙されていたといえばそれまでですが、それにしても実にうまく乗せられたものだと思います。だって、きっとみんな喜んで、先を争ってその新しいライフスタイルを手に入れたのです。マンション(大邸宅)という名の3LDKのアパートを長いローンを組んで購入し、満員電車にすし詰めにされながら会社に通って、ウイスキーという名のイギリスの焼酎を目の玉の飛び出るような値段で買わされて、でもとても気分が良かったのです。
これ、決して単独の意志でなされたものではないのでしょうが、全体が大きなマーケティング活動だと考えると、結果的に実に見事なのですね。マスメディアでイメージを醸成して欲求を喚起し、それを実現可能な具体的な形で、体系的に次々と提供し、達成の喜びが積み上がって行くようにする。同じパターンは規模を変えながらその後も何度も出現しましたね。バブルの頃の高級ブランドのソフトスーツとかセカンドバッグとかを思い出すと、嫌な汗が出てくるのは僕だけではないでしょう。
こうしたスキームにやられて、「和」は、生活の中でのその足場をほぼまるごと奪われてしまったんでしょうね。
では今、このスキームを応用し、コンテンツを「和」に置き換えて、新しい「物語」を描いてゆくことはできないものか。

これ、実はとんでもないチャンスが潜んでいる気がして仕方がないのです。というか、すでに条件はそろい、下地もできている。「洋」のライフスタイル追求は行き詰まり、新しい文脈の期待が「和」に寄せられている。しかもそれは日本だけのことではなく、世界が、新しいライフスタイルとしての「和」の可能性に多大な期待を寄せ始めている。
そう感じるのですよ。
それはたまたま僕が普段、多国籍の人間と一緒にものの価値について考えながら働く職場にいるからかもしれませんが。

たとえばフランスやブラジルで、今OBENTOが流行っているんですね。あれ、日本のアニメの影響なのだそうです。
実際、戦後日本にアメリカのドラマが輸入された時以上の勢いで、今、アニメをはじめ日本製のコンテンツが海外に輸出されているわけですし、こういう現象はこれからもっと起こってくると思います。

大切なのはいかに「懐古」に走らず、21世紀の新しい選択肢としての「和」の価値をプレゼンテーションして行くか、だと思います。
そして課題は、いかに上手なスキームを組んで、体系的に「和」を生活に導入してゆくかということですね。
マスメディア上で走ったマスマーケティングに乗って「洋」の文化や価値観は我々を染めた。しかし今や、インターネットという新しいコミュニケーションツールがマスメディアを無力化し、再び世界を多色化しつつある時代です。多様化のパラダイムはこれと無縁ではあり得ません。
ここにも、とても大きなヒントがあるように思うのですが、長くなったのでこのへんでいったん、お返しするとしましょう。

敬具