折り紙—子供の遊戯、大人の遊戯—岡村昌夫先生 第十八回くのや和塾

Text by nn
1月の和塾女性クラスのテーマは「折り紙」。
折り紙歴史研究の第一人者であり、従来の折り紙の歴史をほぼ全て塗り替えてきた、
と言われている岡村昌夫先生にお越し頂きました。

岡村昌夫先生

前回のお稽古では、日本の折り紙の歴史を学び、つなぎ折鶴をつくりました。
今回は、もう少し踏み込んで、西洋の折り紙と日本の折り紙、その歴史について。
折り紙は日本独自の文化と思われがちですが、そうではないのです。
近代以降、日本で広まっている折り紙は、実は西洋起源だったりします。
前回の簡単なおさらいも合わせて、折り紙の歴史を紐解いていきます。

とは言っても、西洋から輸入される前、
日本に折り紙という物が存在しなかったというわけではありません。
しかしそれは、今現在、折り紙として知られている正方形で片面が色付けされている紙から展開する遊びではありませんでした。

日本の折り紙が、いつから始まったかは定かではありません。610年、高句麗の雲徴という僧によって紙の製法が伝わり、その紙は仏教の発展とともに、改良が加えられ、柔軟であるが破れにくい「和紙」として独自の進化を遂げました。その和紙、当時は、まだ非常に高価な物で、貴族や僧が写経や書、歌を記すために使用されていました。その頃、貴重品の紙を使用し、贈り物を美しく包むことが流行り、それが進化し、室町時代には武家の礼法の一つとして、お金を包んだりする熨斗だったり、箸袋だったりと美しく貴重な和紙紙を、きれいに折り飾る手法が発展しました。

まだまだ紙が高価で、庶民の手が届かないところにあった折り紙が、一般的に流行しはじめたのは江戸時代。
鶴や舟等、物の形を見立てた遊戯折り紙が、文献や絵、織物の中に描かれるようになったのもその時期です。
その中でも、折り鶴は、1700年に出された友禅染のひながた本に折り鶴という名前でその絵が現れ、以後、様々な所で見られるようになります。
ひながた本は、今で言う最新流行のファッション誌。折り鶴は人気の柄であったようです。

その頃、折り鶴は一種のステータスでした。なぜなら、紙が自由に手に入り、それを好きに折って楽しむことができる人たちの間の遊びだったからです。
寺子屋の授業のご褒美として、折り鶴がわたされている資料もあります。
そして、最もよく遊ばれていたのが、遊郭。吉原の花魁やその周りに集まる男達が楽しんでいたのが折り紙です。
実際に吉原では、千羽鶴が大流行。北斎や国貞の絵に描かれる吉原の女性達の浮世絵には、背景に千羽鶴が多く描かれています。

折り鶴柄のお着物

本来の千羽鶴とは、一つ一つ折った鶴をつなげているのではなく、一枚の紙で折っています。ちなみに千羽とは実際に1000羽ではなく、「沢山の」という意味とのこと。必ずしも千羽である必要はありません。前回のお稽古でも作成しましたが、一枚の大きい紙から鶴をつなげて折っていくのは非常に高度な集中力と把握能力が必要です。

塾生でつなぎ折りの実践

本当に難しいです。途中であきらめかける人続出。
大人でも苦労するのに、幼児が簡単にできるものではありません。
中には簡単に作ってしまう子もいるかもしれませんが・・・。
どちらかというと、日本の折り紙というのは、ある程度自由と富みを得た大人が遊ぶための物。大人の遊戯だったのです。

連鶴色々

現代の折り紙に対するイメージとは違っていますよね。もちろん折り紙は、日本独自のものではありません。一方で、西洋の折り紙の歴史はどうだったのか。

西洋には12世紀に製紙法が伝わったと言われています。その後、日本と同じように折り紙の文化は独自の発展をとげました。その背後には幾分、宗教があると考えられています。折り紙の起源とされているのが「受生申請書」と言われています。それは、産まれたときに折られ、折り紙でいう座布団折り。英語でブリンズホールドと言われている折り方から展開し、90度と45度の折り目のみで構成され、折り目でできた三角形にそれぞれ予言された運勢が記述されていました。

その後、日本でいう「奴さん」や「だまし舟」と呼ばれている折り方が、西洋で生まれていきました。15世紀あたりから折り紙と思われるものが文献に現れはじめ、19世紀にはそれと断言できるものが文献に現れはじめます。その折り紙に目を付けたのが、幼稚園の祖、フレーベルです。彼は、上記の奴さんやだまし舟などをまとめ、決まった折り筋だけで、様々な形をつくることができることを示し、身の回りのものがいかに形式として美しいかを子供達に教える物として、折り紙を教育のツールとして採用しました。また、幾何学から様々なものをつくることができることを学び、創造性を豊かにする目的でもありました。

その折り紙は、90度、45度の折り目だけで構成され、正方形の紙を使用します。
そのフレーベルの折り紙がその教育法とともに日本に入ってきたのが、幕末をへて新しい国となった明治以降です。ここで、日本の折り紙と西洋の折り紙が交差することとなります。明治政府のもと、幼稚園の前身としての「幼稚小学」が制定され、フレーベルの教育方法が広まる中、本来お遊びとして折り紙に親しんでいた日本では、彼の理論としていた、幾何学から様々な物を作っていくという創造的な教育としての側面は消えていき、遊戯としての折り紙にその役割が集約されていきます。しかし、あくまでフレーベルが子供向けにまとめたものを教材としているので、日本本来の複雑な折り紙は範囲の外。その簡単な折り紙を先生が折り、生徒がそれを模倣して折るというだけのものとなってしまいます。

さらに、大正に入ると、大正デモクラシーの旗印をもとに、フレーベルの教育は先生の模倣という側面が画一的とされ、社会主義的な子供を作るきっかけとなるとの判断から、折り紙は教育界から追放されていきました。

そのような流れの中で、もともと日本由来の大人の遊戯としての高度な折り紙の文化も廃れていき、子供の簡単な手遊びとしての折り紙として、日本に根付いていくこととなりました。今、私たちがイメージする折り紙は、日本のもっていた複雑で高度な遊戯でもなく、教育的に体系化された知育玩具でもない、中途半端なものになっています。

一般的なものではなくなってしまいましたが、岡村先生を始め、折り紙研究をされている方やアーティストの中では、まだまだ高度な折り紙が存在します。

一枚の紙で折ったバラ

これも一枚の紙から折られています。こんなバラの花束をつくってプレゼントしてみたいですね。小さい子供も手遊びやアーティストのものだけにしておくのはもったいない。大切な人に折り紙のバラをプレゼント、に挑戦してみる価値はあると思います。

日本由来の折り紙が廃れていった背景には、和紙が廃れていったことも上げられます。45度、90度だけではなく、22.5度、60度、30度などの折りがあり、切り込みを入れて折っていくつなぎ折り等、複雑で折りの過程が多い折り方ができたことには、柔軟かつ強度な紙があったからこそ。今の正方形の折り紙ではできません。
今回のお稽古では先生が特注してくださった和紙を使用しました。素敵な和紙でつくったバラのプレゼント。いいと思います。