ー近松門左衛門~虚実の慰みー鳥越文蔵先生 第五十三回和塾

日時:2008年10月14日(火) P.M.7:00開塾
場所:六本木 ロンドンギャラリー

つまるところ、換骨奪胎の才に優れた作家が虚実の狭間で創作した。それが近松の戯曲ということでね。英国の近松、沙翁=シェイクスピアの全訳を成した坪内逍遙の訳文は、その近松の文体を摸したものだった。代表作である「曽根崎心中」の公演回数は優に1000回を超えている世界的にも希有な脚本だ。200に近い(浄瑠璃を150余、歌舞伎を40ほど)作品を残した日本の劇作家第一号である近松は、まことに大きな存在だったのです。和塾は本当に勉強になりますな。

泰斗・鳥越文蔵先生をお迎えした「近松門左衛門」のお稽古、いつにも増して知的興奮あふれる時間でありました。

鳥越文蔵先生

1653年承応2年に生まれた近松の出身地は定かではありません。福井と山口の二説があるのですが確定していない。山口説の伝承に、毛利家に仕えた武家が女中に生ませた子である、というのがある。事情のある子なので母は隠れて出産した。武家に生まれながら劇作家となった因がこの恵まれぬ出自にある、との話しもあるようで。
その近松が、初めて世間に顔を出したのは、1671年寛文11年のこと。山岡元隣が編んだ俳諧文集に彼の句が載っています。『しら雪や 花なき山の 恥かくし』というのがその句。この句、実は既にあった『つむ雪や 花なき山の 恥かくし』を本歌取りしたもの。近松に換骨奪胎の才有りという意見はこんなところからも出ているのです。

その後・京都で劇作家として歩み始めた近松は、1684年貞享元年、宇治座にて加賀掾(かがのじょう)が上演した「世継曽我(よつぎそが)」を発表します。近松の作品としてまず間違いのないものの最初に挙げられるのがこの作品。近松31才の作です。これ以前のものは存疑作(近松の作品であることが完全には確認されていないもの)として扱われるとのこと。それから40年、72才で没するまでに近松は前述の通り、近松の署名のあるものだけでも150余、存疑作も含めると200篇に近い作品を書き上げています。

さて、近松門左衛門といえば「心中もの」が有名ですね。そもそも浄瑠璃というのは叙事詩ですから歴史上の人物を描いた「時代もの」があるべき姿。そこに世話浄瑠璃を持ち込んだのが近松なのです。世話もの、つまり当時の現代劇といえば歌舞伎の出し物であり、心中事件などがあれば早速に劇化して上演していた。歌舞伎の作者でもあった近松は、世話ものに関しては経験があったのです。
竹本座の竹本義太夫のすすめに応じて、実際に起こった心中事件を題材に創られた「曽根崎心中」が、浄瑠璃として上演された最初の世話もの。初演は1703年元禄16年のことです。

その曽根崎心中から道行文を見てみましょう。

『この世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば、暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり、・・・・』

名文ですね。近松は名文家でもあった。荻生徂徠が絶賛したと言います。

鳥越先生の著作

曽根崎心中は、近松の作詞、義太夫の作曲と語り、竹沢権右衛門の三味線、辰松八郎兵衛を核とした人形遣いで上演。大当たりとなった。竹本座は新時代の人形芝居として大阪・道頓堀の地でその活動を始めたものの、当初は客の入りが悪く膨大な借金を抱えていたといいます。曽根崎心中の成功は、この積年の赤字を一気に解消させたのです。

晩年、近松はその芸術論を語っています。「虚実皮膜論」というのがそれ。『芸といふものは実と虚の皮膜(ひにく)の間にあるもの也。・・・・・・虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有りたるもの也。』ということです。
そもそも演劇というものは、はじめノンフィクションとして成立した。事件や事象、事実そのものを多くの人に伝えることが演劇の役目だった。それがやがて、さらなる面白味(=慰み)を付加するために創作の部分を加えはじめ、フィクションとしての作品が登場する。ただ、受け手の「慰」を引き出すためには、「虚」だけではダメであり、「実」の妙味あればこそなのだ、と。絵空事も真実のカタチに似せたところから出ていなければならない、ということなのでしょう。

生涯を上方で暮らした近松は、江戸に下ることは一度もなかったそうです。けれどその作品は、江戸を越えて世界にまで達っする質と量を持っている。「日本のシェイクスピア」と言われるのが近松門左衛門ですが、鳥越先生のお話を聞いた和塾塾生としては、シェイクスピアの方をこそ「英国の近松」と呼びたい。そんな思いに至った五十三回目のお稽古でした。