ー禅の庭~不完全の美ー枡野俊明先生 第六十一回和塾

日時:2009年4月14日(火) P.M.7:00開塾
場所:銀座 くのや 座敷

完全を越えたところにある不完全の美。それが日本の美なのです。
例えばヨーロッパの庭園、そこには寸分の狂いもない完成された美しさがある。けれどその庭(ヨーロッパの庭園)には、精神の入る余地がない。完成された美には、こころを込める隙間がない。対する日本の庭には、到る処に余白と間(ま)がある。考える余地が残されている。秘められた精神こそが日本の美の礎だったのですね。

曹洞宗徳雄山建功寺の住職かつ多摩美術大学教授かつ造園家、枡野俊明氏をお迎えした4月のお稽古は、禅と禅芸術としての庭のお話し。日本文化の根っこに触れたような貴重なひとときでありました。

枡野俊明先生

先生のお話し、まず欧州と日本の対比から始まりました。石の文化である欧州には壁と窓があり、内と外が主従の関係で区分けられている。柱と梁と桁からなる木の文化の日本ではそもそも窓という意識がない。内と外の欧州的仕分けはなく主従の関係もない。内が外を組み込み、外が内に流れ込む。日本の建物は庭の中でこそ存在し、建物の内にある人間も常に外の自然を感じ考えることができるのです。価値観と美意識がまるで異なる。
では、こうした日本の美意識はどこから来たものなのでしょう。

先生のお話しはここから「禅」の有り様へとつづきます。なぜなら、日本の美、実はこの禅の影響を大きく受けているからなのです。現在に至る日本の文化・芸術は、そのほとんどが鎌倉後期から室町期に成立しています。五山十刹が確立されて禅宗が最盛の時代です。この頃、禅は思想の領域を越え、文化・芸術まで包含することとなった。禅文化、禅芸術の誕生です。禅の修行を長く積んだ世阿弥による能。一休宗純に参禅していた村田珠光を祖とする茶道。絵画にも文学にも建築にも、実例はいくらでもある。禅の思想こそ日本美の基盤なのです。

心のあり方を極めていくのが禅。その修行を通して会得した心を、さまざまな人間がさまざまなカタチで表現した。それらが日本の文化・芸術となったのです。あるものは詩歌として表現し、あるものは水墨画にそれを投影し、またあるものは書にその心を表出した。日本の美意識は禅の思想から生まれた、とも言えるのであります。だから、日本文化でモノを創ると言うことは、まず心(精神)を創るということになる。精神の入り込む余地のない美は、日本の美ではないのです。完璧に整地された土の上に敢然と剪定された植栽を左右見事な対象で整然と並べたような西洋の庭園は、人間の精神性を阻害していて、余白も余韻もない、というわけです。フラワーアレンジメントと活け花、マイセンのティーカップと黒樂茶碗。確かに西洋の美には余白や間が感じられない気がしますね。ヴェルサイユの噴水庭園と夢窓国師による西芳寺の庭。その違いはあまりに明白です。

では、日本の庭にも現れているこの禅の美をもう少し詳細に見ていきましょう。
禅の美は七つの特徴を持っている。「不均斉」「簡素」「枯高」「自然」「幽玄」「脱俗」「静寂」(久松真一の分類)の七つです。

枡野先生の著作(「禅と禅芸術としての庭」)からその説明を以下に記しましょう。

●不均斉:形が崩れている。すなわち、均斉が取れておらず歪んでいるということになる。この不均斉は、書や生け花でいう、「真」「行」「草」に当てはめると「草」に当たるが、「真」は、均斉が取れた状態であり、真が歪んで崩れてきたものが草となる。この形が崩れるということは、完全の否定であり、それが不均斉となる。それは一方で「完全や几帳面にこだわらないこと」であり、完全には、安定や静止があるが動きがない。不均斉には、その先に無限大の可能性が潜んでいると禅では考える。
●簡素:くどくどしない、煩雑でない、ということである。建築であれば、装飾的な要素をできるだけ排除し、空(うつ)な空間とすることであり、墨絵の世界では、色彩を徹底的に否定し、墨一色の濃淡によって、彩色では表しきれない奥深いものまで表すことである。このように高度に素朴で、単純であることの美しさが簡素である。この簡素の美の中に、真の豊かさを見ようとする。
●枯高:枯れて長けて強いこと。例えば、他を寄せ付けないような威厳のある老松の姿である。長年の風雪に耐え、余計なものをすべて切り落とし、力強さをもった松は、何ともいえない枯れ長けた美しさが感じられる。これと同様に、芸術の世界においても、未熟さや幼稚さが微塵も感じられることがなく、本当に物事の真髄のみが残り、峭峻な気高さが現れている美しさをいう。
●自然:一般的にいわれる自然ではなく、無心で巧まないこと。本来のままで無理のない美しさであり、故意とらしい(わざとらしい)姿を否定した形である。茶の湯では、「さびたるはよし、さばしたるは悪し」という言葉があるが、まさに同じことをいっている。「さびたる」は自然で良いのであるが、「さばしたる」は故意とらしくて良くないという意味である。創造的意思や作意が十分にあるが、その姿に故意とらしさがなく、無理がない状態でありながらも、実は隅々までその意思がくまなく行き届いた状態、これを自然と呼んでいる。
●幽玄:奥ゆかしさということであり、全体を表さないで内に含蓄すること、見えない部分に秘められた無限の余韻を感じさせることである。庭園でいえば、庭の構造上、中心的な存在となる滝、その滝にモミジなどを添えるように植えるが、これを飛泉障り(ひせんざわり)と呼ぶ。実際山などへ行くと、滝や水気の多いところにはモミジが生えていることが多い。しかしそれ以上に、滝の姿をすべて見せず、見え隠れさせることにより、見えない部分を想像させ、その見えない部分に無限性を潜ませているのである。庭に灯籠を据えた場合も、灯障りという役割の樹木を植えるが、これもまったく同様で、そこには、現れきれない、奥深く蔵しているものから、滲み出てくる余韻がある。この美しさが幽玄である。
●脱俗:ものごとにこだわらないこと。法則性というようなものにもかかわらないこと。一切の形で無いがゆえに、一切の形である自由をいう。例えば、布袋さんが大きなお腹を出して歩いている姿が、墨絵などに描かれていることが多いが、布袋さんは、境地を極め、その上でお腹を出して歩いているのである。別に体裁を気にするでもなく、周囲の目を気にするでもない。布袋さんがどんな姿でいようと、その本質は何一つ変わらない。心は、俗を完全に脱して自由な境地に遊んでいる。そのような物事にこだわらない美をいう。
●静寂:限りない静けさであり、また内に向かう心である。その静けさとは、日常からの逃避の静けさではなく、むしろ生活の真っ只中における心の静けさである。落ち着いた静けさ、すなわち、静寂は「動中の静」という言葉によって表すことができる。一般的に、芸術は表現を伴う行為である。表現することで騒がしくなる方向へと向かおうとするが、そうではなく、表現をすることによって騒がしさを否定し、静けさの世界へ導いてゆく。これが禅でいうところの静寂である。

西洋にはもちろん存在せず、中国でもすでに失われたこのような美の基準は、日本が世界に誇るべき貴重なものです。物質的な豊かさではなく精神的な豊かさをこそ求め、その心を表現として現す。それが日本の美であり、日本文化の姿勢なのでしょう。市場至上主義の成長神話が崩壊しつつある今こそ、見直されるべき別の視点が、そこにあるのです。

先生のお話しが、本ブログにも発表している「和塾の思い」とあまりに近いことに驚きながら、61回目のお稽古も幕となりました。

枡野俊明先生
曹洞宗 徳雄山建功寺 住職
庭園デザイナー (日本造園設計 代表)
多摩美術大学 環境デザイン学科 教授
ブリティッシュ・コロンビア大学 特別教授(Adjunct Professor)
作品として:祇園寺 紫雲台庭園『龍門庭』茨城県 水戸市・蓮勝寺 客殿庭園『普照庭』神奈川県 横浜市・セルリアンタワー東急ホテルラウンジ・日本庭園 『閑坐庭』東京都 渋谷区・ベルリン日本庭園『融水苑』ドイツ ベルリン・ベルゲン大学新校舎庭園『静寂の庭』ノルウェー ベルゲン・カナダ国立文明博物館日本庭園(1期)カナダ オタワ他
著作として:禅僧とめぐる京の名庭(アスキーメディアワークス)禅と禅芸術としての庭(毎日新聞社)『 夢窓疎石 』 日本庭園を極めた禅僧(NHKブックス日本放送出版協会)日本庭園観照術(ベネッセコーポレーション)寺院空間の演出(双樹舎)他
日本造園学会賞・横浜文化賞奨励賞・芸術選奨文部大臣新人賞・外務大臣表彰・市緑化功労者 国土交通大臣表彰・カナダ総督褒章他受賞

防府市斎場庭園 『悠久苑』

セルリアンタワー東急ホテル日本庭園 『閑坐庭』

東京青山カナダ大使館

ベルリン日本庭園『融水苑』

 

 

禅と禅芸術としての庭

枡野 俊明 / 毎日新聞社

禅僧と巡る京の名庭 (アスキー新書 83)

枡野 俊明 / アスキー・メディアワークス

 

禅の庭―枡野俊明の世界

枡野 俊明 / 毎日新聞社