ー清元〜語るように唄うー清元志佐雄太夫先生 第二十七回和塾

日時:2006年6月13日(火) P.M.7:00開塾
場所:六本木 はん居

今月のお稽古は、清元。六本木・はん居に三味線手にして現れたのは、人間国宝を父君に持つ志佐雄太夫先生。先生のお相手は、そもそも根本的な知識に欠けたおっさん十数名。穏やかな笑顔で志佐雄さんの挑戦が始まります。

志佐雄太夫先生

清元協会のホームページによると「清元」とは、清元節のことで、江戸時代後期(文化11年 1814年)に生まれた三味線の伴奏による豊後節系浄瑠璃の一つ。浄瑠璃の諸流派の中では最も新しいものです。

日本の古典声楽においては、その諸作品を「語りもの」と「唄もの」に大別しており、語りものを通称「浄瑠璃」と呼んでいます。(ちなみに、この浄瑠璃を語る人のことを一般的に「太夫」と呼びます。)
語りものには義太夫節・常磐津節・清元節・浪曲などがあり、唄ものには地歌・長唄・小唄などがあります。
語りものはその名のとおり本来的には叙事的なストーリー性の強い歌詞を歌い、唄ものは叙情的な歌詞を歌うわけですが、実際は語りものの中にも叙情的な部分があり、唄もののなかにも叙事的な部分はあるわけで、音楽的にはこれは程度の問題と言わざるをえません。
浄瑠璃の一つであった繁太夫節は現在地唄に吸収されていたり、浄瑠璃の方が当時のはやり唄を取り入れていたりと、特色が混在している。畢竟、両者の主な違いはその歴史的な系統ということにすぎないようです。
演奏者の意識としては、語りものでは旋律的な美しさの追求よりは日本語の抑揚を活かし言葉を語るような感覚で歌う事が重要視され、唄ものでは語る感覚よりは旋律的な美しさを重要視する、という傾向にあると思われます。が、これも個々の演奏者の解釈により差があり、一つの流派の中でも作品によって異なり、さらに、一つの作品の中でも場所によって違うのが実情です。
つまり、清元がその一派である「浄瑠璃」というものは、現在においては、古典声楽を分類する際にその系統上の違いを表すために便宜上用いられているだけといった感じで、浄瑠璃と唄ものを概念的に区別するのは、非常に困難な事とのことです。

どうりでわかりにくいはずです。基本知識が皆無なところに、こうも複雑では理解に時間がかかります。そこで志佐雄先生、お稽古の入り口の取っ付きをよくするために、清元になくてはならない「三味線の仕組み」から話してくださいました。

志佐雄先生の三味線

三味線というのは4つの部分に分解できるのですね。胴の部分と棹の部分が3つ。木部は紅木でできている。糸は3本で絹製。胴部の両面に張られた皮は皆さんご存知の猫の皮。犬の皮やカンガルーの皮が利用されることもあるらしいが、音色の良いのはやはり猫。猫皮を日本で手配するのは難しいので、昨今は韓国からの輸入品が多いとのこと。首を落として冷凍された猫が輸入され(合掌)、なめしの作業から日本で行われます。プロが使用する三味線は一棹200〜300万円。耐用年数は10年程なので、通算するとストラディバリのヴァイオリンより高くなります。三味線はもちろん弦楽器ですがその構造は打楽器にも近い。胴部の表裏に皮を張りその共鳴で音色が響く。太鼓の構造と同じであります。

胴の内側には細かな模様が彫り込まれています。

先生の三味線を実際に手にしながらの導入で、無理なくお稽古に入ったところで、いよいよ清元のお稽古となります。

お題は「十六夜清心」。弁天小僧の作者・河竹黙阿弥の作品。廓の女郎と寺の坊主が出会って、実らぬ恋を成就するために心中するけど死にきれない、てなお話し。この一節を先生に倣って塾生が語ります。

十六夜清心

清心】 見ればそなたはたゞ一人、夜道厭わず今頃に、廓を脱けてどこへ行くのじゃ。
十六】 どこへとは清心様、昨日父さんのお話に御追放の上からは、もう廓へもこれまでのようにおいでもなさんすまい、ひょっとしたらその座から、どこへおいでなさろうやら知れぬと聞いてなつかしく、長い別れになろうかと思えば人の言うことも心にかゝる辻占ばっかり、いっその事と暮合に廓を脱けてようようと、お前に逢いたく来ましたわいな。
清心】 [思入れあって]最早そなたに逢われまいと思っていたに測らずもこゝで逢うたは尽きせぬ縁、いかなる過去の宿縁やら、見る影もない清心をかくまで慕うそなたの親切、今日も今日とてこの小袖、送ってくれたばっかりに、身巾も広き清心が知辺の方へ行かれるわいの。
十六】 知辺の方といわしゃんすが、そうしてお前はこれからどこへ。
清心】 さ、どこという当てもなけれど、追放に逢う上からはこゝに足は留められず、ひとまず当地を立ち退いて、京に知辺の者あれば、それを頼っていく心。
十六】 そんならわたしともどもに、連れて行て下さんせいな。
清心】 未来をかけたそなたゆえ、連れて行きたきものなれど、行かれぬわけはこれ十六夜、ふとした心の迷いより、女犯の罪に追放の刑を受けたるこの清心、我が身ばかりか幼きより御恩を受けし師の坊の、名まで穢せし勿体なさ、

何事も、鑑賞するのと実行するのは天地の違い。簡単そうに思えた清元の節回しも、やってみるととても難しい。そもそも、初めて接した清元をいきなりその日に人前で語るのだから、羞恥を徳とする日本人的には、相当恥ずかしいです。十六夜役は女になって語るのだから、聞いている方も赤面します。

最後は志佐雄太夫の「三社祭」を拝聴して、ことのほか贅沢な6月のお稽古が終了したのでした。

清元 志佐雄太夫(しさおだゆう)
父は清元志寿太夫(重要無形文化財保持者=人間国宝・平成11年没)。母は清元延香。兄は初代清元栄三郎・初代清元小志寿太夫。弟は初代清元志寿朗。昭和15年4月母清元延香に師事。27年名古屋・御園座の舞踊会の『鳥羽絵』(市川猿翁所演)で初舞台。38年12月清元志佐雄太夫を名乗る。またこのころから大川橋蔵公演、長谷川一夫公演で本興行の舞台を勤める。57年9月新橋演舞場「若手花形歌舞伎公演」の『道行旅路の花聟』で初めて歌舞伎の立語り。57年から東京芸術大学音楽学部邦楽科清元専攻の講師となる。海外公演は昭和57年6月〜7月ジャパン・ソサイエティー七十五周年記念アメリカ歌舞伎公演に参加、『隅田川』を語る。60年7月〜8月アメリカ歌舞伎公演に参加、『累』を語る。61年6月パリ歌舞伎公演に参加、『累』を語る。63年7月〜8月オーストラリア歌舞伎公演に参加『隅田川』を語る。このほか日本舞踊を27年8月から藤間藤子に、31年から藤間勘右衛門に師事、藤間勘慶朗を名乗る。一中節を26年ごろから都一よしに師事、都乙中を名乗る。また33年ごろから常磐津を初代常磐津菊三郎に師事する。