ー水墨画入門~想像力の絵画ー島尾新先生 第六十四回和塾

日時:2009年7月14日(火) P.M.7:00開塾
場所:白金アートコンプレックス ロンドンギャラリー

半分は観る人の想像力で成り立つ絵。水墨画にはそんな作品がたくさんあります。受け手のこころと頭に与える余地と余白の文化。想像力で見えてくる景色。何もかも描き込んでしまう西洋絵画とは違いますな。

白金アートコンプレックスに島尾新先生をお迎えして、夏の夜の和塾のお稽古。とんでもない名品を眼前に、イリュージョンみたいに贅沢な時間でしたね。

島尾新先生  後ろは狩野永徳です。

さて、今回のお稽古、初めての公開講座。世話人雑務が多すぎてメモがしっかり取れてない。ここからはかなり強引なお稽古まとめです。追記・訂正あればずんずんコメント入れてください。

水墨が生まれたのはもちろん中国、唐時代。墨と筆を使ってそれまでになかったいろいろな表現ができることが自覚されるようになったのがその場所その時代ということです。筆を自在に操ることでできる様々な線。墨の微妙な階調。暈(ぼか)しや隈(くま)による立体感。こうして生まれた水墨はその後どんどん洗練されてくる。

洗練の方向のひとつが、人間の想像力を刺激する仕掛け。筆と墨による絵の情報量をむしろ少なくすることで、人間のイメージ形成作用を引き出すということですか。だから水墨画(特に山水画)は、鑑賞者の態度も重要になってくるんですね。何もかも必要以上に視覚化するハリウッド映画などに親しみすぎると、イメージ形成能力が減衰しちゃって水墨が薄黒い塊にしか見えなくなるってことです。最近、新機軸の3D映画を子供たちをターゲットに展開しようと画策する大人がいるようですが、想像力を奪うだけじゃないかと思います。(脱線してます)

今回は公開講座でした。だから塾生の顔ぶれが少し違います。

時代が下って、南宋の頃。山水画のような大きな世界ではなく、その一部に寄った類の水墨が現れます。猿の絵とか、高僧の絵とか。元の時代になると今度はアマチュアの絵がさかんになる。文人画といわれる作品たちです。プロの絵とアマの絵、どっちも凄いのが水墨画の特色のひとつです。墨と筆があれば誰にでも描けるということでもあります。明清の時代にはこの傾向がさらに拡大した。

会場は白金アートコンプレックス 仏像が見守ってます。

このように中国で生まれ、発展し洗練された水墨画は、鎌倉時代の後期から南北朝時代にかけて日本にやってきた。もっとも日本ではそれらを「唐絵」と呼んでいて、高価な舶来品という扱い。中国へ渡った禅僧が持ち帰ったものや、武家などの権力者が輸入した主に南宋から元にかけての画。あこがれのブランド品のような存在だったのですね。エルメスのバーキン、クロコのダイヤ入りなら2000万円ほどですか。家で眺めてニヤついてる。唐絵を眺めてニヤついてる方が知的に思えますが、まあ精神構造は近いものだったのかもしれません。(また脱線してます)エルメス並の人気を誇ったのが、牧谿(もっけい)・夏珪(かけい)・馬遠(ばえん)・梁楷(りょうかい)など。偽物があるのも現在のブランド品に似ています。

PC、スライド、現物 教材も盛りだくさんでした。

そんな中で、日本でも水墨画が描かれるようになります。が、当時の日本の画師に求められたのは中国の人気作家風の絵を描くこと。なかなか厳しい状況ですが、今にもつづく舶来信仰の中で、それぞれの画師が自分なりの工夫を加え、日本の水墨画が深化してきたのです。如拙・雪舟・雪村・永徳・等伯・宗達・大雅・蕪村・大観・・・・。さて、彼らの絵は本家中国のそれを越えることができたのか。そもそも彼らは、越えることを目標としていたのか。
例えば、ロックを演奏する日本のミュージシャンのことを思うと、少々複雑な印象ですね。どこまで追ってもそれが手本であり目標である限り越えることはできないんじゃないか。そもそもそれを越えていこうと考えるミュージシャンがいるのかどうか? 国内では大御所の音楽家が本家のスターの前でひれ伏すような風景を見ると、私は少し悲しい気分になります。(またまた脱線してます)

これは白隠 本物現物です。

水墨画の中には色のついたものもあるのですが、その典型はやはりモノクロームのもの。世の中は色彩にあふれているのに、なぜ黒と白だけで描いたのか。不思議なことです。これもまた、観る人の想像力を引き出す仕掛けのひとつなのでしょう。気構えがあればさまざまな色が見えてくる? 思い、考える余地を組み込んだ芸術なんですね。日本の庭や俳句などにも共通する、受け手とのインタラクティブな関係を前提とした存在。そこが理解できれば、モノクロームは世界を描けるのだ、という先生のお話しも納得いただけるでしょう。

プロジェクターに写っているのは「山市晴嵐図」想像力で観る。

こうしたモノクロームの微妙な濃淡や繊細な線を鑑賞することを求められる水墨画は、ガラスケースに収められた美術館で眺めてもあまりよろしくない。
そこで、今回のお稽古では、ちょっとびっくりするような名品をガラスケースなしで鑑賞しました。永徳、黙庵、雪村、白隠・・・。どうもかなりとんでもない作品たちを、その価値をイマイチ把握できていない塾生諸氏が間近で見学した。顔を近づけて眺めながらべらべら喋るもんだから、ツバキが作品に飛び散っているんじゃないかとハラハラしましたよ。和塾ならではの贅沢なひとときですな。

かなり近くで永徳を見ました。 この後さらに近づく人続出。

狩野永徳

近寄って見るとこんな感じ。

こちらは雪村

そして黙庵

描き手がその心を手で表す「得心応手」というコトバを学びました。あるものをそのまま描くのではなく、深く観察した後、自らの中でそれを再構成して画とする。描く者の内面性が、その手を通し身体性として表出される。それが水墨画なのです。ガラス越しではなく、名品に直接対峙して鑑賞したのだから、塾生のみなさん、画師の心をしっかり感じることができたはずですが、どうですか?

島尾先生と永田さん ありがとうございました。

 

雪舟の「山水長巻」―風景絵巻の世界で遊ぼう (アートセレクション)

島尾 新 / 小学館

水墨画と語らう (美術館へ行こう)

島尾 新 / 新潮社