ー利休の茶の湯ー木村宗慎先生 第六回くのや和塾

日時:2010年1月27日(水) P.M.7:00開塾
場所:銀座 くのや 座敷


Text by yayo
新年はじめの「くのや和塾」お稽古は、気鋭の茶人・木村宗慎先生によるお話し。それはそれは、ともかくとても広範囲にわたるものでした。
なので、少々長くなりそうですが、先生の茶の湯に対する想いをレポートさせていただきますね。

木村宗慎先生

型を学ぶということ

戦前戦後にかけて茶道を習う人が急激に増えた背景には、行儀作法とか花嫁修業のように、社会教育の一端を担っていたことが大きかったようです。
がしかし、みなさんには、茶の湯とはそもそも何なのか、今一度考えていただきたいのです。
一般の人にとっての茶道とは、多くの場合、お点前の型(かた)を学ぶことに他なりません。
けれど、本来の茶の湯というのは、そういうことではないのです。

茶の湯が、たんにお手前の型を学ぶということであるなら、それは、例えて言うなら、車の運転をするということが教習所へ通うということと同じになってしまいます。昨今は、お茶を習う人が皆、あたかもマニュアルを勉強するような風潮になってしまっています。

茶の湯には、空間のこと、道具のこと、さまざまな分野にわたる型が残されています。
利休の時代でさえ、150年~200年の蓄積されたマニュアル=お点前の型がありました。
そのような型を学ぶことは、決して悪いことではありませんが、型を学ぶことだけが、お茶だと思われてしまうのは大変残念です。

ご自身が、何のために型を学んでいるのか、このような型が何のために存在しているのかということを常にどこかで考えていただく、ということが、実はとても大事なことなのです。

乱れの美しさ

みなさんは、能面が左右非対称だということをご存知ですか?
一見シンメトリーに見えますが・・・じーっとよく見てください、微妙に、目の高さや大きさが違う。
特に名人のものは、左右の差が天文学的に細かな数値で、微妙な人の表情を生み出すために、左右非対称になっている。こうすることで、実は動きというものも出ます。

これは「乱れ」と言ってもいいかもしれません。

よく、能にも、舞にも乱れがあると言われます。
茶の湯にも乱れという言葉があります。みごとに整えた上で、わざと乱れさせる。
はからずも、あたかもはからずもであるかのように、あえて、強いてわざと、乱れさせる、それもかすかに、乱れを作るというのが、ひとつの日本美の極意ではないかなと思います。

この乱れという言葉を置き換えて、侘びと言ってもいいかもしれません。

宝塚など海外の踊りは、概ねシンメトリーで、動作もきちっと揃っています。
しかし、日舞でも能でも茶の湯の所作などでもそうですが、わずかに、左右がずれます。
お茶のお点前も所作のことですから、同じことです。
右手が止まりかけたら、左手を動きださせるとか、一緒に動いているようで、そうではなく、その両手が茶筅から離れるときも両手が一緒ではなく、微妙に左右がずれている。

乱れを生じさせる、つまり、緊張感の上にわずかのたわみを作ったり、時には張ったりというものが作られることで、所作の美しさが、見えてくるわけです。

総合芸術としての茶の湯

お茶という文化は、あらゆる美術を使いこなす総合芸術だといわれています。
お茶は、分野が広いのです。広げたらきりがない。

茶の湯は、室町時代の後期に、ほとんどの文化が出揃ったあとに、それらを包括するカタチで、
総合的な教養に根ざした人々の、ある種の社交であり、交わる場として、生まれてきたのです。

それが、単なる社交を超えて、ある種の表現として、高められていった。それが、この時代、茶の湯というものが完成に向かって行った時期なのです。

そのときにとても大切なところを担ったのが、千利休という人です。

型を勉強するだけがお茶ではない。が、それを踏まえたうえでいろんなことを理解していただくために、自由にしていただく。型にとらわれずに、ご自身の喜びを、自分にとって、何が美しいのかということを、見極めていただくということが、お茶を楽しんでいただく上で、ものすごく大切なのではないかと思います。

飲み物ではなく行為

ただ単純にお茶を召し上がっていただくというのでは、茶の湯はたんなる飲み物になってしまいます。茶の湯というのは、そうではなくて、ある一連の行為なのです。

そこでは、お茶をたてる所作さえも召し上がっていただくご馳走なのです。
用具を持ってくる動作、お客様にきれいにしてますよという動作。
清める動作、飲み物を造る動作、片付ける動作。すべてがご馳走です。

また、茶の湯では、言葉も大切です。
和歌、漢文、季節の言葉、文学的素養というものが、ずいぶん生かされます。
たんなる飲み物ではなく、交わす言葉もまた茶の湯。すべての行為が茶の湯なのです。

茶の湯の世界には、先人の残した、名言、格言もたくさんあります。

その言葉というものが、実に楽しい。茶の湯というのは、形而上的な奥行きを持った言葉と形而下的な所作というものがみごとに融合して、昇華される文化なのです。
精神的な喜びと肉体的な喜びとが、共存しているわけです。
そういう意味では、茶の湯は五感の喜びに満ちている行為であり文化であると言えます。

手に触れて、口をつけて、香りを聞いて、音を聞いて、我々人間が感じることのできる五感を全て、喜びとして、享受できる要素が、ここには、用意されている。
しかもそこに、頭で考えて、言葉で取り交わしをして、また、やがて言葉と言葉の間にある、行間を読むというような作業にまで、膨れ上がっていくので、実に官能的な行為と言えるのでしょう。

茶の湯の喜び

お茶の喜びとは何か。
それは、プレイヤーとしての喜びです。どんなレベルであっても、プレイヤーになっていただきたいのです。

例えば、いろんなお道具、これは、色んな方が残してきた証です。美、そのものです。
それを、ガラス越しに見るだけでなく、使うのです。
基本、お茶の道具というものは、それが、400年前のものであろうと、600年前のものであろうと、使用に耐えるものであれば、全て使います。
そして、使用に耐えうるものでなければ、茶道具とは、呼ばない。

そのようなものを使って、それを実際に使うことを喜びとするのです。そして、それを自分だけで楽しむものではなく、誰かと一緒に楽しむのです。そうすればその喜びを分かち合える。
一人で食べるより二人で食べる方が美味しい、ということがありますよね。

茶の湯というのは、ある種恋愛のようなものだと思います。
もっといい女性がどこかにいるかもしれない。
もっといい男性がいるかもしれない。
そのようなことを求めて、もっといいお茶が、あるのではないかと追い求める。
チャップリンが、あなたの最高傑作は何ですかと聞かれて、ネクストワンだと答えたそうですが、茶の湯もそれと一緒です。

ある種の場所に、ものを集わせて、そこに、人が集まって、
なにがしかの行為を行う文化ですから、お茶っておもしろい、それこそ、お茶の何よりもの喜びなのです。
そしてその喜びこそが、もてなしなのです。
単純にお茶とお菓子を出していることが、もてなしではありません。
それは、自分が身を切るような切実なもの。
例えば、この日のために、今まで丹精してきた鉢の木を燃やしてでも客人をもてなし、それを喜びとしてもらわなければならない。そのような切実さこそが何よりの感動を生むわけです。

分かち合う喜びというのは、そういうことでしょう。それを、涼しい顔してやるのが、侘びなんです。侘びとは、心根の動きなのです。

一期一会

今宵一期に、この世のものを全てを捧げてもかまわない、というのが侘び。
だから、小さな粗末な2畳のものに、だまされてはいけない。

侘びというのは、すべて食べることができるけれど八割に止めておくから、侘びなんです。

一期一会とは、もう二度と会えないかもしれないなんてことではありません。あらゆる意味で、この場で漂わされている空気というものこそが、自分と、また、一緒にいる人と作った空気、というものが作品なのですから、それは、もう二度と作ることができない。
取り返しもつかないし、記憶とともに風化していく。ただ、今、でしかないからこそ、一期一会という言葉は、魅力もあれば、危険もある言葉です。

繰り返しになりますが、お茶というのは、行為なのです。飲み物ではない、
あるとき、飲み物としての文化というものをなくしてしまった。

飲み物というものとしての文化を閉じさせた。
それが千利休なのです。

お抹茶が美味しいということは、飲み物としてではないということに、気がついていただきたい。
そしてより多くの方に、茶の湯の喜びを感じていただきたいと思います。

お稽古の最後に、長次郎の茶碗と、利休が使っていた、棗(なつめ)を見せていただきました。
茶道具というのは、使ってこそ、生きる、とのお話でしたから、塾生も皆それらの逸品を直接手にして、1月のお稽古も幕となりました。

宗慎先生、ありがとうございました。

宗慎先生:お道具を手にするときは指輪ははずしましょう。

 

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