ー刀剣研磨〜刃文の美ー藤代興里先生 第二十八回和塾

日時:2006年7月11日(火) P.M.7:00開塾
場所:九段 刀剣藤代

刀を研ぐのは、包丁を研ぐのと同じようなものだと思っていました。じゃないんですね。刀剣研磨は次元が違う。そこには、彫刻とか絵付けのような世界が広がっていたのです。

研師の第一人者・藤代興里先生を迎えての第二十八回お稽古。和室に切られた研場のある先生の仕事場に、塾生諸兄ぞろぞろとお邪魔して始まりました。

藤代興里先生

日本刀といえば「刃文」をまず思い浮かべます。が、この「刃文」何がどうしてそんな波のような文様になっているのか・・・。話はまず日本刀の構造そのものから始めなければなりません。

刀はそもそも人を斬るための道具ですから、鋭利で強固であることが絶対の条件となります。けれど、ただ堅牢なだけではかえって脆弱になる。硬くて薄いだけの鋼はすぐに折れる、ということ。そこで、日本刀はその背(棟や地)の部分を「やわらかく」つくってあるのです。鋭く曲がることのない部分と柔軟で折れない部分。一本の日本刀はこのように二つの性格を併せ持った存在なんですね。で、件の「刃文」は、この二つ(硬い部分とやわらかい部分)の間に生じる文様なのです。

座敷に並んだ名刀

日本刀の製造工程に「焼入れ」があります。鍛錬した刀身を火に差し入れて熱し、直後水に突きこんで急激に冷やす。この焼入れ前に、その効果を調整すべく刀身に土を置く。厚く土を置いた部分は焼入れの効果が少なくなり、薄い部分にはしっかり焼きが入る。即ち、刃にはしっかり焼きを入れ硬く仕上げ、背(棟や地)の焼入れをひかえて柔らかく仕込む、ということなのです。この結果、刃と背の鋼の結晶構造に差異が生まれ、両者が混在したその境目に光線を乱反射するラインが出来上がる。これをして「刃文」というわけなのです。

もともと刃文自体はこうした構造的必然の結果生まれたものなのですが、これに「美」を見出したところが日本人の優れた審美眼のなせる業。西洋の刀剣が刀身の彫刻や外装といった付け足しの美であるのとは大きく異なります。刃文に美を見出した日本人はその後この美しさを徹底して高めていくのです。土置きの程度や形態を様々に工夫し、その後生まれた日本刀の刃文はまさに圧巻。川を流れる紅葉を擬した「吉野川」と呼ばれる刃文まで作り上げる始末です。藤代先生、これはちょっとやりすぎですね、と否定的でしたが・・。

刀を研ぐ藤代先生

さて、このような刃文も、刀匠が仕上げた段階の刀身でははっきりとその姿を現してはいません。研ぎを入れて初めて「刃文の美」が眼前にその真の存在を示し始めます。そしてこの「刀剣研磨」、簡単なことではない。下地研からはじまるその工程は、細かく分類すると20種以上の作業がつづく誠に繊細な仕事なのです。下地研・仕上げ研・刃艶・地艶・ぬぐい・刃取艶・・。荒砥・備水・改正・名倉・細名倉・内曇・・と砥石だけでも9種もを使い分け、仕上げ研では砥石を薄く小さな断片に切り出し裏張りをしたものなど多様な研ぎ素材を使用します。

研ぎ場に置かれた砥石

こうした研ぎの工程を経て、日本刀はその美しさを完成させる。刀剣研磨が包丁研ぎとは次元の異なる彫刻や絵付けのような仕事であること、和塾なければ知る由もない深遠な事実なのでした。

刃文を鑑賞する塾生諸氏

刀剣研磨と刃文のお話しを拝聴した後、塾生諸氏揃って日本刀を手に取り、その美しさをゆっくりと鑑賞させていただきました。初めて手にする真剣の重さ、繊細に湾曲したその形状、恐ろしいほどに鋭い刃先・切っ先、茎に刻まれた様々な銘、そして、光に当てると現れる個性豊かな刃文。普段は少々軽いノリの塾生も、真剣を手にしたこの時ばかりは、背筋を伸ばして眼光鋭い侍風情に変身していたのでした。

藤代興里(ふじしろおきさと)
1947年生まれ。父・藤代松雄(重要無形文化財保持者=人間国宝)のもとで刀剣研磨に従事。1984年(財)日本美術刀剣保存協会研磨技術発表会・無鑑査。平成10〜12年、東京国立博物館工芸課刀剣室調査委員。
現在日本刀の研師は国内に60名ほど。藤代先生はそのトップに位置する権威であります。刀剣鑑定の世界でも権威として著名。藤代鑑定付きの刀剣は格違いの扱いです。