ー冒険する浮世絵ー内藤正人先生 第七十七回お稽古

日時:2010年8月10日(火) P.M,7:00開塾
場所:白金 ロンドンギャラリー

Text by miyaben
広重の東海道五十三次といえば、永谷園のお茶漬け海苔ですね。日本人の浮世絵フェチは根強いです。先月も所在不明だった歌麿の肉筆画が栃木の民家から発見されたというニュースが新聞の文化欄に載っていました。(参照→ 所在不明の肉筆画、栃木の旧家が2点所有)じつに200年前に描かれた絵が、当たり前のように話題になるという国ってすごい、と思いませんか。その鑑定をされたひとりが、慶応義塾大学で美術史の教鞭をとる内藤正人先生です。内藤先生は浮世絵を「日本人にとっては近くて遠い」存在とおっしゃっています。どういうことでしょう。

内藤正人先生

私たちの知っている「浮世絵」は、歌麿、写楽、北斎、広重が描いた極彩色に印刷された版画です。しかしこれらは二世紀におよぶ浮世絵の歴史の後半に現れる大輪の花のようなものだそうです。それでは私たちの知らない浮世絵の成り立ちを覗いてみましょう。

浮世絵はいわゆる「江戸の風俗画」です。風俗画というのは、市井の人々の世態人情を描く画風で、髪型や着衣から、日常生活のひとコマを描く絵です。
それ以前までは「洛中洛外図」に代表されるような多くの人物を一枚の絵に描く「景観図」というものは描かれていました。
先生は、洛中洛外図から浮世絵にいたるまでの「近世初期風俗画」を見せながら、その変遷を語っていただきました。
その変遷は、素人にもわかりやすい!
①一枚の絵におさまる人物が、少なくなっていきます。洛中洛外に群れなす極小の人物群
から、ただひとりの女性像へ。
②その変化の行き着く先には、無背景の独り立ち(「見返り美人」)の構図となります。
③洛中洛外図のような大きな六双屏風から、小さいサイズの紙へ。
④題材が人の生活のひとコマへと移っていきます。とくに庶民のあこがれである「遊女」
の題材が好まれます。
⑤人の生活を活写することから、当世流行を描くことにな。浮世という言葉に本来、そのような今という時代を表すニュアンスをもっているようです(「浮世草子」など)

さて、ここで中学の歴史教科書では書いていない困った件について。
浮世絵のはじまりとして、教科書には菱川師宣の「見返り美人」が掲載されますが、浮世絵って版画じゃないの、と思ってきた学生たちは、ここでつまずくわけです。写楽や広重のような版画じゃないじゃん、って。
浮世絵師はたいてい肉筆と、版画の下描きのふたつを行っていました。肉筆だけでは量産できないので、版画にすることによって大量生産をめざしました。そして版画のほうは春画が描かれることが多いということです。
菱川師宣も版画は描いていました。浮世絵のはじまりとして、その版画を載せれば、学生たちのつまづきはなくなるのですが、春画は載せられません……残念。(参考→第57回お稽古「春画〜笑う性愛」

浮世絵が庶民の生活を活写する「風俗画」であることは、それを鑑賞するのも同じ庶民であろうと考えるのは自然な思考の流れかと思います。
内藤先生はこのあまりにも自明とされていた「大名や公家は浮世絵を鑑賞しない」という考えに果敢にも疑問を呈しました。
大和郡山藩主・柳沢信鴻(のぶとき)は、日記に当時の人気浮世絵師・勝川春章や北尾重政の絵本や、彼らとの交流についての記述が書いています。
勝川春章の代表的な作品に「美人鑑賞図」があります。この絵の背景が、柳沢信鴻が隠居していた「六義園」の風景ではないかと、内藤先生は推理し、ついに大名と浮世絵師とのさらなる交流を裏付けています。

皆が知っているつもりになっている浮世絵ですが、大名や公家というやんごとない人々も、当時の庶民の暮らしに興味をもっていたという新しい視点が加わりました。まさに「近くて遠い」浮世絵の世界です。
内藤先生の浮世絵をめぐる「知の冒険」は飽きることを知らず、あっという間の二時間でした。

内藤正人先生プロフィール:
慶應義塾大学アートセンター副所長 慶應義塾大学文学部准教授
1963年、愛知県生まれ。 慶應義塾大学大学院哲学研究科修了。博士(美学)
財団法人出光美術館主任学芸員 国際浮世絵学会常任理事
慶應義塾大学のほか東京外国語大学、横浜市立大学、専修大学、日本女子大学などで大学・大学院非常勤講師を歴任。1993年、「北斎漫画〈初編〉の研究」で第一回鹿島美術財団賞を受賞。
江戸時代の絵画史、とくに浮世絵・琳派などを研究テーマとする。
おもな著書に、『江戸名所図屏風・大江戸劇場の幕が開く(アートセレクション)』(小学館)、『ボストン美術館肉筆浮世絵』(責任編集ほか、講談社)、『歌川国芳(新潮美術文庫22)』(新潮社)、『色競―未公開肉筆画帖』(河出書房新社)など。