『歌舞伎・勧進帳を読み解く』講師:藤田洋 先生

日時:9月18日(水)19時~21時
会場:六本木/国際文化会館セミナールームD
講師:演劇評論家 藤田洋 先生

『演劇界』編集長、演劇出版社社長、新国立劇場の初代演劇藝術監督…本日も斯界の大御所、藤田先生をお招きして開催。歌舞伎十八番『勧進帳』の世界をご案内いただいた。

【1時間15分に凝縮された舞台構成】

歌舞伎『勧進帳』とは、能の『安宅(あたか)』の影響を受けてつくられた初の「松羽目物(まつばめもの)」の歌舞伎演目。京都から奥州平泉(現在の岩手県)へと落ち延びていく源義経・武蔵坊弁慶・四天王の一行が、途中、安宅の関(現在の石川県小松市)を通過する際の富樫左衛門らとの攻防を描いている。

その中には 富樫の名乗りから、弁慶による勧進帳の読み上げ
富樫が山伏の心得や秘密の呪文について問いただす山伏問答
主君の義経を金剛杖で叩く弁慶の心情表現、
危機を脱したあとの、弁慶による延年の舞(えんねんのまい)
そして最後の花道で弁慶が一行を追いかける飛六方(ろびろっぽう)。と見所満載。
男同士の対立と義の心が激しい葛藤を生み出す力強いドラマを写実的な表現で構成した演目である。

上演当初は一中節や半太夫節なども盛り込まれていたが、大衆の声にあわせて編集されたのだそう。その編集の力量がものをいい、時代と共に人気を博していく。現代でも上演回数の多い勧進帳。「安宅」にかけて「マタカの勧進帳」と揶揄されるまでになった理由を窺い知ることができた。編集の力ってスゴい。

また、それだけの人気を確立していった考案者が役者だったというからスゴい。
原型を初代市川團十郎、現在の型までに編纂したのが八代目市川團十郎。市川團十郎には役者としてだけでなく、すぐれた編集能力を備えた名跡だったのだ。
弁慶・富樫・義経の三役も、作品自体とともに歌舞伎界で重要な役どころとなり、歴代の看板役者が生涯に一度は演じる役柄となった。

【歌舞伎界初の松羽目物】

『勧進帳』が歌舞伎で舞台化される前の時分、能でも三味線や他の地方がかかることもあったようだ。
当時それを知った七世市川團十郎は、
それならば松葉目の舞台(能、武士のもの)の演目を歌舞伎の舞台(庶民のもの)で展開してもよかろう
と、そこから発想を得て、考案したのではないかというのが藤田先生の見解。

通常の歌舞伎舞台であれば、場面転換に背景や道具類が変わるが、松羽目物は異なる。
能舞台と同じように松の巨木が描かれた背景のまま、役者の立ち回りだけで見せる舞台だ。

時間・空間を自在に操り、道行きや関所、宴の場、主従の心情を表す場に展開。男の義の世界観を表現するにふさわしい演出となっている。同時に、カブき過ぎない写実的な表現が、江戸幕末うつりゆく世の中を背景に観客の共感を呼び、『勧進帳』以降「松羽目物」はひとつの演出方法として、確立されていったのだそうだ。

【藤田先生イチ押しの『勧進帳』を鑑賞】

昭和初期の七代目松本幸四郎の弁慶(写真)・六代目尾上菊五郎の義経・十五代目市村羽左衛門の富樫による『勧進帳』は絶品で、映画にも記録された。戦後幾度となく上演会もなされたという。そのモノクロの映画を一同で鑑賞した。

役者の発声方法・衣装・小道具・立ち回りの変化や、何より延年の舞は絶品だったことに改めて、名舞台と云われた由縁をたっぷりと味わった。

これには藤田先生も思わず、
「わたしもみなさんと一緒に楽しんで観てしまいました。」とコメント。
幼い頃から祖父母に連れられ、東京歌舞伎座でご覧になっていた当時の舞台はやはり、先生にとっての原点でもあるようだ。途中途中、歌舞伎への親しみと鑑賞されて磨かれ抜いた視座のもと、鑑賞のポイントをいただいた。なるほど!歌舞伎で『勧進帳』がかかった暁には、改めて生で舞台を観にいこうと審美眼磨かれる体験ができた。

【歌舞伎十八番『勧進帳』は「荒事」、か?】

荒事、基本的には隈取りという化粧や誇張された衣装で、見得や六方など独特な演技をする主役やその演目を「荒事」と呼ぶ。市川團十郎が得意とし、そのなかでも特に人気があった演目を選んだものが 歌舞伎十八番だ。

はて、弁慶は、隈取りもなく、大掛かりな衣装でもない、それでも荒事と呼べるのだろうか?

先生曰く、「形式ばった荒事とは異なります。『勧進帳』は心象風景を描いた荒事なのです。」

時代を見据え、時代とともに磨かれていった心の荒事、『勧進帳』を学んだひととき、
和塾一同背筋の伸びる鑑賞となりました。
ありがとうございました。