『伊勢物語』講師:ピーター・J・マックミラン先生

日時:10月24日(木)19時~21時
会場:六本木/国際文化会館
講師:ピーター・J・マックミラン先生
(杏林大学 客員教授、東京大学 非常勤講師、詩人、版画作家、翻訳家)

唐衣
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
旅をしぞ思ふ

日本最古の歌物語集『伊勢物語』を学ぶ。

講師は、ドナルド・キーンさんも大絶賛している『伊勢物語』を英訳された、ピーター・J・マックミラン氏。
来年”The story of Ise”を発表するに先立って、和塾にて特別に講演が叶った。

そこには「愛」という感情に非常にポジティブで情熱的な日本人の姿があった。

31文字のなかに想いを詰め、当時大変貴重だった紙にしたためる。
どんな紙に書くか、どんな香りをたきしめるか、どんな字で綴るか。何と一緒におくるか。
様々な制約と戯れながら、爆発しそうな想いを相手に届ける。
その時間差、季節、思い慕う相手の手許に渡り、読まれるまでの情景を想い描きながら——。
言葉遊びや音韻、知性を入り交え送る 当時の手紙は
現代でいうTwitterのウルトラCバージョン、といったところだろう。

『伊勢物語』には、さまざまな愛のかたちが描かれている。
幼馴染との純粋な愛、激しく一途な愛、すれ違う愛、母親への細かな情愛、
都に残してきた人を思う愛、神をも越えようとする愛などなど
和歌ひとつひとつを、丁寧に詠みながら、余情たっぷりに、柔らかく紐解いてくれた。

英訳されて、主語が明記されることにより
現代人にも分かりやすいPoemになっていたが、
その秀逸な一連の英訳ひとつひとつは、是非書店で手に取っていただきたい。
冒頭にあげた「カキツバタ」もちゃんと”IRIS”になっているし音調・音感を楽しんでいただけるはず。

と同時に、主語を消しても言葉として機能する日本語の良さに改めて気付かされた。
自分と相手との距離感や関係の決定権を、自らが発信しながら、相手に委ねることができる。
唄に描かれた感情。そう思っているのは私なのか貴方なのか、それとも…。
言葉の余白が相手との距離をはかりあう仕掛けとしてはたらく。
日本語とは非常に粘着質な言語なのかもしれない。

これは外国人から日本文化を学ぶことで生まれる
日本人の古くからもっていた感受性の発見だ。
幕末〜明治維新、戦後にかけて塗り替えられ一夫一婦制の社会になってからの
感情をあらわにしてはイケナイ文化、にのみ触れていたことに対しての気付きは、
そこから、歴史を遡ることで見えてくる、社会制度・文明発展の過程、宗教観にまで繋がってくる。

曖昧さが、強い自我をもつ者同士をも和し、
素直な心が、想いを強いエネルギーに変換し(Passion)、
儚さが、どこまでも純粋な思いやりを叶え、その一度きりに際限ない愛を注がせ、
せつなさが、自身と他者の境界線を緩やかに描かせる。
それらの感情・感性は、相手を動かすのに十二分な力を持っている。

まだ「愛」という概念が輸入されてくる以前の我が国には
このように潤沢なコミュニケーション能力をもった
人物を貴重とする美学を携えていたのである。
事実、『伊勢物語』はその後の日本文学にさまざまな影響を与えた。

いにしえのラブレターたちに
しなやかな強さをもつ日本人の心を見いだすことができた。
ピーターさん、どうもありがとうございました。

さて、昨今では疑似恋愛を楽しむレンタル彼氏・レンタル彼女なるものがあるという。
クラブ・キャバクラ・ホストクラブ等の変遷なのだろうか。
ネットで検索。カルチャーショック。脇腹にフックでもくらったかのような感覚に陥った。
相手をとことん愛し、逢瀬を重ね、愛に破れ、とことん悲しむ。そしてまた愛に目覚める。
『伊勢物語』の表現にでてくる「血の涙を流すまで」とまでは言わないが、
そこは金銭だけで解決させずにいたい。
(もっとも、そういったことも絡むのがオトナの恋愛なのかもしれないが。)
恋愛に費やす膨大なエネルギーは、個人の知性・品格、感性を磨く目に見えない美しい財産なのだ。
たとえ現代社会の規格に抗うことがあっても、そこはお互いの倫理と程度の問題。
お互いを思いやる心を、疲れずに、忘れずに、持ち続けていたいもの。

幾千年のときを越えても、男と女は違う生き物なのだから。