ー狂言~人間とは何かー山本東次郎 第三回混合クラス

日時:2009年9月16日(水) P.M.7:00開塾
場所:六本木 はん居

Text by kuroinu
狂言とは、知の裏付けをもって人間の愚生を描き、もって「人間とは何か」の問いに答えようとするものである。
山本東次郎先生による定義を聞いて、狂言に対する思いに変更を迫られた塾生も多かったのではないでしょうか? 今でも百科事典の狂言の項目には「厳粛な能と能の間にはさまれて上演される軽くて滑稽な対話劇。前の能の緊張感をほぐし次の能への気分転換として演じられる」などと書いてある。世間がそんなことだから、塾生の中にも「狂言というのはつまり大昔のコントだな」なんて認識だった人も多かろうと。けれど、その程度の存在であるなら、六百年もの時をくぐり抜けて生き残ることなどできようはずはない、と言われれば、確かに・・・。

9月の「はん居和塾」は、狂言方・山本東次郎先生をお迎えして、まことに贅沢な「狂言」のお勉強でした。この少人数で、目の前での実演と解説。古典芸能をよくご存じの方なら「あり得ない」というお稽古だそうで。しかし、和塾の塾生は普通の人びと。有難味がイマイチわかってない? でもそれが「和塾」の良いところですね。

東次郎先生の実演と解説、さわりの部分を動画でご覧ください。

 

お稽古は、初心者にもわかりやすい曲目「末広」のお話しで進行しました。極度に初心者な和塾塾生に対する東次郎先生の暖かいご配慮に感謝。しかも、いきなりの実演。眼前で展開された演技に総員緊張のひとときでしたね。

末広(すえひろ)は、ある果報者が出てくるところで始まります。まず名乗りがある。 「このあたりに隠れもない、大果報の者でござる」 先生の大音声が狭いお稽古場に響きました。(動画1はこのパートです)

天下が無事に治まっていてめでたいかぎりの世の中なので、人びとはあちこちで寄り集まっては宴会を楽しんでいる。ついては、自分のところでも一族の人びとを招いて宴会をしようと思っている。そこで召し使う太郎冠者を呼び出し、当日おいでいただくお客様の中で一番上座に着かれる宿老(一族の代表者)に引き出物として、またお祝いの意味を込めて『末広がり』を差し上げたいと思うが、自分の道具箱の中に『末広がり』はあるか、と果報者の主人が尋ねます。
太郎冠者は「お道具は、ことごとく存じておりますするが、末広がりと申すものは、ついに見たこともござらぬ」と応えます。

実はこの太郎冠者、『末広がり』がどんなものか知らなかったのですね。「末広がりって何ですか?」と一言尋ねれば良かったものを、道具類を取り仕切る立場としての見栄もあって、聞くことができなかった。で、話しはとんでもないことになってゆきます。

主人は、我が家にないのなら今すぐ都へ行って買ってこい、と太郎冠者に命じます。ついては好みがある。「まず第一地紙良う、骨に磨きを当て、要もしっととして、戯れ絵ざっとしたを求めてこい」と条件をつけて太郎冠者を使いに出します。都に着いた太郎冠者は、末広がりがなんだか知らないのだから途方にくれる。で、大声で呼び回れば望みのものを買えるかもしれないと、「末広がり買おう、末広がり買いす」と都大路を呼び回る。
ここで登場するのが「これは洛中を走り回る、心に直ぐにない者でござる」と名乗るあまりたちの良くない男。この男、太郎冠者が末広がりを知らないことを確かめてから、この広い都の中で末広がりを商売している人間は自分以外にはいないのだから、出会えたお前さんは幸せ者だ、と太郎冠者を安心させる。その上でこの男、どこにでもある「唐傘」を売りつけるのです。傘を開けばそのカタチ、確かに末広がりになっている。貼られた紙も良く、骨もすべすべ滑らかで、要(かなめ)もしっかりしている。戯れ絵というのは戯れ柄のことで、傘の柄でもって戯れることもできるのだから、主人に言われた条件もすべて満たしている、と面白おかしく太郎冠者を丸め込みます。すっかり信じ込んだ太郎冠者は、大喜びで高い金を出してその傘を買い求めます。

帰宅した太郎冠者は、末広がりを買ってきました、と胸を張って報告します。主人も才覚のある召使いはどんなことを言いつけてもきちんと間に合わせてくれるものだ、と喜んでいる。太郎冠者は、自信満々で唐傘を主人の鼻先に突き出します。主人これを見て、冗談はよいから早く買い求めた末広がりを出せとたしなめます。太郎冠者はご主人さまも末広がりを知らないのですね、と都で聞いた唐傘の説明をしてみせる。ついに主人は怒り始め、太郎冠者に怒鳴りつけます。末広がりとは扇子のことだ、と。そもそもそんな傘など家の台所に行けば何本だってあるではないか。怒鳴られた太郎冠者は、末広がりが扇子のことなら、初めから扇子を求めてこいと言ってくれれば良いものを、と口ごたえする。とうとう主人は太郎冠者を家から追い出してしまいます。

 

人間の愚生、というものですね。誰にでもある愚かな行い。分からないことを分からないと言えない弱さ。確かめることをしっかりと確かめず、説明すべきことをしっかりと説明しない驕慢。太郎冠者も主人も、双方が賢く振る舞えなかった結果、過ちにつながる。描いているのは、人びとの日常にいくらでも転がっていることなのです。

そして狂言は、こうした人間の愚かさ弱さを決して劇的にならないレベルで提示していきます。扇子と傘の取り違いですから、過ちと言っても決定的なものではありません。この「劇的でない」ところが狂言の特色でもある。劇的に描いたのでは、それはある特殊な「事件」となってしまい普遍性を持てなくなる。観客が、舞台の上で提示された人間の愚生を、自分とは縁遠い対岸の火事ではなく、自らのこととして考えることができるように、狂言は敢えてその表現を押さえているのです。
盛り上がりに欠けて、なんだかみみっちい笑い話だなぁ、なんて感想を持つようでは狂言を分かっていないということ。狂言は、意識的・意図的にそうした未熟さとも浅さとも見える次元に「踏みとどまっている」ということを見落としてはいけません。狂言は、毎日の自分を見つめ、自らの人生を反省し懐疑する謙虚さを備えた人びとの心の中で、はじめて開花する芸なのです。ふ〜。

狂言の演目は200あまり。そこで描かれるのは、さまざまな「あまり賢くない」人間の姿です。愚かではあるけれど、素晴らしい人間の有り様。東次郎先生のお話を聞いて、もう一度しっかり狂言を観に行きたいと思う塾生でした。

山本東次郎家 狂言の面

山本 東次郎 / 玉川大学出版部

 

中・高校生のための狂言入門 (平凡社ライブラリー―offシリーズ (530))

山本 東次郎 / 平凡社