連載

対論[第7話・前編]新内多賀太夫×田中康嗣
始めに愛がある

三味線を伴奏に、主に駆け落ちや心中など花街の遊女の悲恋を語り、江戸時代に人気を博した新内節。ときに柔らかく色気に満ち、ときに切々とした哀調を帯びた語りや三味線は、歌舞伎や遊廓という庶民文化に根付いて発展してきました。今回お話を伺うのは、そんな新内節の若き継承者・新内多賀太夫さん。人間国宝の新内仲三郎師を父に持ち6歳で稽古を開始。2017年には30代の若さで家元を襲名し、新内節のみならず邦楽の世界を牽引する多賀太夫さんから「持続可能な地球」を導くヒントを学びます。

新内多賀太夫(Shinnai Tagatayuu)
冨士元派七代目家元。新内協会理事。
1982年東京生まれ。6歳より父の新内仲三郎(人間国宝)に師事。東京藝術大学音楽学部邦楽科を卒業し、同大学院博士課程を修了。歌舞伎や新派公演、国立劇場、三越劇場、紀尾井ホール主催公演等に出演。新内流しの再現や子供達への普及にも励む。
2004年東京藝術大学常英賞、2009年第22回財団法人清栄会奨励賞、2013年第34回松尾芸能賞新人賞、2014年第68回文化庁芸術祭賞新人賞、2015年第65回芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞、2018年第22回日本伝統文化振興財団賞、2020年第9回中島勝祐創作賞、2021年第41回伝統文化ポーラ賞奨励賞受賞。
創作曲に「寿猫」「乙姫」「因幡の白兎」「いろは曼荼羅~空海~」他。劇伴に「窯変源氏物語~夕顔、玉鬘、葵~」「土御門大路」「新釈 金色夜叉」「居酒屋お夏」「明烏 AKEGARASU転生」「黒蜥蜴」他。歌舞伎では「マハーバーラタ戦記」や「世界花小栗判官」「通し狂言 姫路城音菊礎石」の一部を作曲。2019年には新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」の音楽作曲を全編にわたって担当。2020年「日本博オープニングセレモニー第二部」の音楽監修と作曲。2021年「日本博特別公演」に出演、同フィナーレの作曲。
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●心中が描く未来

新内多賀太夫(以下、多賀太夫):新内節の代表作のひとつに『帰咲名残命毛(かえりざきなごりのいのちげ)』という端物の作品があります。江戸時代に実際にあった心中未遂事件を題に取ったもので、新内節らしいいわゆる「心中もの」。現在のような自由恋愛の許されない時代に生きた男と女の物語です。

和塾理事長 田中康嗣(以下、田中):新内節に限らず、日本の伝統的芸能には男女の駆け落ちや情死を描いたものがたくさんありますね。社会の枠組みからはずれてしまった哀しい女と男の物語だ。

多賀太夫:ええ。この作品は、江戸吉原の遊女、尾上と津軽藩の家臣、伊太夫との色恋を核としたお話し。遊女にうつつを抜かし、養家からも勘当された伊太夫と、それを自分の責だと思い悩む尾上。遂には脇差しを咽喉へと、といったお話しで。

田中:行き場を失った二人が冥土へと向かう悲しい顛末・・・。

多賀太夫:と、思いますよね。けれど、僕の考えはそうした解釈とは少し違うのです。

田中:ん、というと・・・。

多賀太夫:心中ものというのは、死へと向かう道程を描くものではなく、心から生きようという道標を示しているのだと考えるのです。ちょっと難解ですが、心中というのは世間という強い枠組からの離脱であり、それはそうした枠組みの中に不本意ながら組み込まれて忍従することよりむしろ自由な生き方なんじゃないかと。

田中:なるほど。情死は忍従からの解放だと。心中という行為をポジティブに捉えれば、確かにそういう側面も見えてきますね。新発見だ。多くの人々は心中を選ぶことはないのでしょうが、選ばない人々の方がむしろ不自由を受け入れ生きているのだ、と言えなくもない。

多賀太夫:はい。だから僕は、心中ものを演じるときには、より力強く生きて行こうとする人間を描こうと思うのです。心中というのは確かにひとつの生の終わりなのですが、その終わりの意味に着目すれば、むしろそこから始まる人間ひとりひとりの希望のようなものが見えてくる。

田中:そうですね。そもそも、江戸期以前の日本人は、死というものに対して現在とは随分違う思いを持っていたのではないか。生だけに意味を求め、それが終わるとすべてが失われるようなことではなく、死にもポジティブな意味があった。自然と人間が渾然一体としてあるように、生と死の間にも明確な区切りを設けるのではなく、生から死を通した聖へと切れ目なくつながっているような認識があったように思います。だから、かつての日本人にとって死とは、そこへ向かって墜ちてゆくようなことではなく、聖的な境地へと昇ってゆくような感覚があった。死を目まえにした爺さんや婆さんは聖的な神に近い存在ですものね。森の中の老木に神を感じて崇めるような心の置き方があった。心中事件の結果としての死にだって、そうした視点はある、というのはとても新しい考え方だ。

多賀太夫:はい。心中することによって生きる、とでも言い得るような。厳しい封建的制約の中で、あるいは貧しい暮らしの中で、それをただ受け入れて生きている方が、むしろ死んでいることになるのじゃないか、と考えてみる。肉体的には生きているのだけれど、精神的には死んでいるような。より力強く生きる、肉体だけではなく魂としても生きるということ。心中ものには、そうした視点で見てゆくと多くのヒントがあるのではないか、と思ったのです。

田中:貫く意志の強さとか、明日へつながる勇気とか希望とか。心中の中にある正の要素が今を生きる人への指針になる、ということですね。

多賀太夫:ええ。なんだか不景気で不穏な社会の中にあっても、未来に希望をもって生きるということは、とても大事なことじゃないですか。今、この時代にこそ、そうした視点はとても重要。

田中:しかも、そうした思いはいつの時代にも必要だ。

多賀太夫:そう、とても普遍的です。だから、心中ものは、時代を越えて支持され、語られつづけてきた。そこに未来への可能性があった、と僕は考えているのです。

 

●人間でつながる

田中:そうした伝統芸能の未来への可能性を考えたとき、気になることがいくつかあります。例えば、日本の伝統芸能は、入門者にとってとてもややこしいところがありますよね。西洋のお稽古事、例えばピアノとかヴァイオリンとかバレエなどに比べると、入門時に考えねばならないことがたくさんあります。三味線のお稽古を始めたいな、と思っても、三味線には種類がいろいろありまして、楽器としても太棹あり中棹あり細棹があり、ジャンルとしても義太夫があり常磐津があり清元があり長唄があり・・・と。稽古したいのはどれでしょう?というようなことになる。入門時にはそれら複雑な分類の中からどれかを選ばなければならない。子どもに日本の踊りを学ばせたい、と思った親御さんはたくさんの日本舞踊の流派からひとつを選ばなければならない、といったようなことです。しかも、多くの場合、一度選んで入門するとそれとは別のものに変わることはとても難しい。

多賀太夫:そうですね。でも、それも本来は師匠と弟子、人と人の関係で成り立つものだったのですがね。今は、関わる人間が少なくなって難しくなっていますが、一昔前なら、例えば新内の稽古にやってきた人でも、声を聴いたら清元の方が良いからと別の師匠を紹介したり、清元に入門しようとした人が新内の稽古を始めたり、もっとずっと自由だった。流派がどうのこうのと言う前に、シンプルな人間と人間の関係があったのです。父くらいまでの世代ならそうした人がたくさんいたものです。芸のことがしっかり分かっていて、しかも懐の深い良きお師匠さんがたくさんいて、お弟子さんもたくさんいて、豊かで大らかな環境があったのです。弟子になる人々も、習い事の種類や流派よりも、師匠の人間味とか人柄で選んでいたようなところがあったのではないか。新内節の隆盛もその名を確立させた鶴賀新内の人間性がとても良かったから、というような至極単純なことがその要因だったのじゃないかと思うのです。

田中:人間そのもので成り立っていたのですね。情とか心意気で人と人が結ばれるような社会。それが今の時代は難しいことになる。人間の前にカテゴリーだとかクラスだとかセクターだとかが立ちはだかる。関与する人間の数が少なくなると、顧客の奪い合い?のようなことになって、入門者を囲い込んでしまうようなこともありますしね。

多賀太夫:そうですね。結果的に、ひどくわかりにくいイメージになってしまう。本来はもっとシンプルでわかりやすいものなのです。うまく説明できるといいのですが。

田中:入門者にとってのハードルは、お稽古の入り方にもありますね。日本の習い事は最初が厳しい。基本練習が延々とつづいたり、正座での我慢を強いられたり、決められた姿勢や手脚の位置をマスターするまで繰り返したり。入門から相当な年月を経て、ある程度の型を習得するまでは苦しいことばかりだったりします。

多賀太夫:それも伝統の弊害ではないかと思いますね。そもそも、人間はひとりひとり違っていて多様じゃないですか。例えばお三味線のお稽古をするとき、ある流派では脇をしめなさいと教え、また別の流派では脇を少しあけて弾きなさいと教えるのですが、脇をしめた方が弾きやすい人もいれば、脇を少し緩めた方が良い人もいるわけで。人間は皆それぞれ違うのですから。もし脇をしっかり固めて弾いた方が良い人が、脇をあけて弾く流儀に入門したら、せっかく持っていた能力も開花しない、などということだってあり得ますよね。そうした弊害をなくすためには、多様な人間そのものに寄り添うことも必要なんだと思います。その上で、適切な道筋を選択して授ける。師匠の度量が問われることですが。まず、しっかりと人間そのものに寄り添う。それがあって初めて厳しい稽古も成り立つのだ、と。

田中:まず最初に、人間としての師匠と弟子があって、人と人のつながりがあって、その先に型を極めたり、芸を楽しんだりする道筋が広がっている。型だとか流儀の決まり事が初心の入門者の眼前に立ちはだかるようなことではない。

多賀太夫:はい。始めに愛があるから、厳しい稽古も受け入れることができる。今はなんだか順序が逆ですよね。伝統芸のステータス?のように、強く厳しい稽古がまず最初にあるようなことはおそらく本質ではない、と僕は思います。(後編へ続く

 

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