text by Yuji

和塾 定例のお稽古10月の第一弾は、四代目中村鴈治郎さんにお越しいただきました。
本年一月に襲名され、大阪松竹座を皮切りに12月の京都南座まで襲名披露公演が続くご多忙な中、
ご本人にお越しいただいての貴重なお稽古でした。

歌舞伎「襲名」をテーマにお題をいただきました。
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和塾本科・四代目中村鴈治郎による「歌舞伎・襲名の流儀」
平成27年10月7日(水)国際文化会館
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–歌舞伎の始まりについて
 
本題をご理解いただくにあたり、歌舞伎の始まりについて少しご説明いたしましょう。歌舞伎は、巫女である出雲の阿国(おくに)が始まりだとされております。四条河原で、巫女が、奇抜な衣装をまとい、謡い、踊るストリートパフォーマンスが評判になって、発展していった。元々は、女性だけでやっておりましたが、お客に体を売ったり買ったりが横行。風紀が乱れるということで、幕府が禁止するわけです。
 
若衆歌舞伎と言って、前髪のある若い男の子がやるようになるんですが、あの時代は男色が普通にあって、これもやがて禁止になる。
 
それならばと、前髪をそり上げた大人の男がやる。男が女の役をやるわけですが、最初はただ遊女の所作をまねていた。そのうち、だんだんと、こうゆう風に動けば、女に見えるということがマニュアル化していき、職業として成り立っていくんですね。
 
このころになると、囲いの中に人をあつめて興行をやるようになります。朝からぶっ通しで芝居を上演する。当時は桟敷席で、お腹が空けば、弁当を食った。
 
『一声、二顔、三姿』なんて申しますが、弁当なんか食って仲間でわいわいやるもんですから時として、ろくに舞台をみてないわけで、そこで、「やーやー」などと大きな声を上げては、役者に注目を集めたわけですね。顔より、姿より、まずは、声が肝心だということ。
小屋では、弁当だけでなく、今でいうブロマイドなんかも売った。だんだんと、商売として儲かるしくみが出来上がっていくわけです。
 
–上方歌舞伎と江戸歌舞伎
 
四条河原で生まれた歌舞伎は、江戸にも広がっていきます。
東の団十郎、西の藤十郎といいますが、関東と、関西では違いがあるんですね。
 
江戸では、女が気に入らないことを言うと「なにいってやがんでぃ」と、ぷいと女に背をみせてそのまま、立ち去ってしまう。いわばやせ我慢が、かっこいいとされた。
上方では、ぷいといなくなるところは同じなんですが、少し時間をおいて「そういえば、この間の話やけどな」と、とぼけて舞い戻ってくる。「粋(すい)」というものが好まれた。
 
江戸では武士が幅をきかせておりましたので、歌舞伎で、武士が困ったことになったり失敗をやらかしたりするのを見ると、観客が喜ぶわけです。上方は、商人中心の世界ですから、人情ものが受けた。近松門左衛門を代表するような、心中ものが流行したりする。
 
上方も江戸も、共通するのは、観客が喜ぶものを歌舞伎にしていることです。

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–松竹株式会社について
 
江戸時代には役者は、みんな芝居小屋と直接契約を結んでいたんです。11月に行う「顔見世」と言うのは、これから一年間その芝居小屋に立つ役者を紹介するものでした。ですが明治になって芝居小屋の制度が廃止されてしまいました。
 
今は、歌舞伎の興行はどれも「製作 松竹株式会社」ということになります。海外の公演もそうです。歌舞伎は、日本の伝統文化ということになっていますが、能や文楽とは違って、みんな松竹という一企業がやっている芸能。だから、政府から助成金などが付きにくい。
なんで民間でちゃんと儲けている企業に、政府が金を出すんだって、文句を言う人がいるんですね。
 
ところで、明治になると、役者の意識が変わり始めます。江戸時代には、大衆に受けるものを舞台にかけていたのですが。歌舞伎は芸術だということで、難しいことをやり始めた。そして少し敷居が高くなってしまうんですね。
 
その一方で、これまで娯楽といえば歌舞伎だったところへ、映画という強敵が参入してきます。後の世には、テレビというものが現れる。
 
時代の流れで、歌舞伎がダメになっても仕方がない状況だった。松竹という会社は、映画が儲かるってことを自ら実感していたに違いない。しかし、収益が悪いからと、歌舞伎を切ったりしなかった。松竹の芸能に対する真摯な姿勢が、現代の歌舞伎の土台を作った。ある意味、宿敵である映画の収益に、歌舞伎は救われたんですね。

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— 鴈治郎襲名
 
さて、本題に入ります。2015年1月に、四代目中村鴈治郎を襲名いたしました。
 
実は、十年前にも襲名のお話をいただいていたんです。父親である三代目中村鴈治郎が、四代目坂田藤十郎に襲名すると同時に、私が四代目鴈治郎を襲名。ということで声をかけていただいた。そもそも襲名したいって申し出て、襲名できるものではないんですが、お断りしたのです。その時は、違うと思ったんです。
 
十年経ち、また声をかけていただいた今回、ありがたく襲名を賜りました。
 
この十年で、様々な役をやらせていただきました。
祖父である、二代目鴈治郎も実に様々な役をやった。
 
祖父の時代、特に上方歌舞伎は様々な問題を抱えており、零落期を迎えていた。二代目は、松竹と袂を分かち、映画やテレビにその活路を見出していた。時が経ち、やがて大歌舞伎に戻ったとき、その苦労が花開いた。実に素晴らしい味わい深い役者になっていた。
 
対照的に、初代鴈治郎は、ひたすら、主役をはって圧倒的な人気をはくしていました。成駒屋のお家芸「玩辞楼十二曲」を、私もいずれ全て公演したいと思っているのですが、今では上演されなくなったものもあります。「俺が俺が」という、とにかく主役が目立つ作品が中心で、初代でないと成り立たないものもあります。
 
私は、祖父である二代目鴈治郎に強く思いをもっています。私の父親(四代目坂田藤十郎)は、主役をはってなんぼの役者です。いわば初代を継ぐものですが。十年前、四代目坂田藤十郎を受け入れた。成駒屋から、山城屋に、いわば家出(いえで)したわけです。屋号を超えてまで襲名したのは、なんとしても上方歌舞伎を盛り返そうという気持ちが強かったんでしょう。
父は父、私は鴈治郎を大事にしていきたいと考えています。
 
— 襲名という伝統
 
襲名してよかったことは、襲名披露公演のおかげで、偉大な先輩とたくさん共演させていただけたことです。自分が主役として、普通は考えられない先輩と同じ舞台に立ち、先輩には負けてられないと奮起せざるを得なかった。この一年、沢山いい経験をしました。襲名の意義とは、こういうことかと。役名を、役者を成長させるためにあるのだと実感しました。
 
本当の勝負は、来年からの活躍にかかっています。これからは自分で前に進んでいかなくてはいけない。
 
さて、襲名一般ではなく、鴈治郎襲名ということについては、明示的に何かを受け継いだものというのは、実はありません。というのは、子供の頃から父親に稽古をつけてもらった記憶がない。
 
決して私とは共演してくれようとはしませんでした。
 
でも、孫ならよかったようです。なんと共演する、というじゃないですか。あー、そーかい、と思っていたら、息子が病気で舞台に立てなくなった。息子の代役で、父と共演を果たしたというわけです。
 
私自身は、息子が子供のころ連獅子で共演したことがありました。
一緒にやることを勘三郎さんに話したら、そりゃーやめといた方がいいって、止められました。
どんなに、ハラハラするか。気になって気になって、生きた気がしなかったと。
そんなものかと覚悟したのでしだが、なんと楽しかったことか! 
つまり、自分しか見ていないってことですね。俺が俺がという点だけは、受け継いだものなんでしょう。
 
四代目坂田藤十郎である父と、自分は、おなじ鴈治郎を名乗りますが、違う役者である。ですが、俺が俺がという点のほかに、もう一点、共通点があります。
 
私は、関西に家をもち、住民票も関西にあります。こうやって、関西弁もしゃべれます。
 
上方歌舞伎復興にかける思いに関しては、同じ、強い思いをもっているのです。
 
どうぞ四代目中村鴈治郎をよろしくお願いします。

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