聖徳太子と法隆寺【和塾・西山厚説法を聴く】

Text by yuji
今週の和塾は、西山厚先生のお話しを聴くお稽古でした。テーマは、法隆寺の謎と、聖徳太子の悲しき運命。細かな資料を元に、いつものように懇切丁寧にご解説いただきました。

これまでも、和塾では様々な分野の先生に歴史のお話をお聞かせいただきました。
どの先生も、その時代を、我が事として生き、見て、感じたままをお話しくださるので、こちらも目の前にその時代を、先生を通じて感じられるのでした。毎回、先生方のその歴史へ向かう本気に、すごいなと思うのです。

西山先生は、その秘密を、つまり、どうやって今の世の名人たちが、その時代を我が事として捉えられるか、そのコツを、目の前で実践して見せてくださるのです。

西山_聖徳太子_3

「このような資料は、世界的にも類をみません」

スライドには『法華義疏』とよばれる巻物が映し出されます。これは、推古天皇に、法華経の講義をするために、聖徳太子自らが、書いた講義ノートです。

「味わいがあって、いい字ですよね。この横に伸びる一画ですが、すっと気持ちのいい筆運びです。細く始まり、太く下方向に向かう。楷書などがまだなかった時代の字形で、中国の唐の時代になるとこの筆使いはなくなってしまう。明らかにこれは随の時代の字なんです。それにしてもこの書には他にはない味わいがありますね。私は好きです。

この巻物の表紙に『この漢文は、中国で書かれたものではない。(遣隋使を送った、かの)聖徳太子が書いたものだ』と記されています。後の世に、博覧会でもあったんでしょう、新たに表紙をつけた時に追記されています。でも、こんな注釈をせずとも、この書は、中国で書かれたはずはないんです。なぜなら、少なくない間違いが認められ、その多くが日本人にしかあり得ないミスなんです。

ここですね「上如」とありますね。つまり日本語の語順どおり「上の如く」と。
漢文としては「如上」と本来あるべきところのあやまりなのです。それを、漢文の語順に無理やり合わせるために、今見れば滑稽ですが、レ点で語順を修正していますでしょう。」

「これは、聖徳太子が推古天皇のために一生懸命に書いたものなのです。でも、正式な文書ではない、メモなんです。ところどころ、注釈の書き込みがあり、たとえば、これは実際に『法華経』に書かれている事。ここは、私がこう思っている事だ、などと書かれている。その思いが、この巻物全体にあふれ出ています。いったん記したところを、いやこれは違うな、本当にはこうなのだと、刃物で削って書き直している。そうですね、この箇所がそうですね。

中国からの良い紙を使っていたので、多少紙をけずっても、問題なかったんですね。でも、なんども書き直すたびに、ほら、ここなんか、穴が開いている。穴があいたらどうするか。上から短冊状の紙をはって、その上に書いた。

これなんか、初めは一行だったところに、二行にわたって、しかも小さな字で、修正している。

言いたいことがあふれて出てきて行間をはみ出てしまっている。こんな歴史上の文献は、世界中どこを探しても他にはない!

ただ一つ、もしあるとしたら? こんな切り貼りは、そうですね私が知っている限りでは、私が書いた、大学時代の卒業論文だけです」

西山_聖徳太子_1

ここで、バチリと、火花がおこる。それは、まるで、聖徳太子のあふれる思いと、先生の学生時代の古への熱い思いとが、『法華義疏』という貴重な歴史資料を通して、電流がショートしたように閃光をはなち、長い長い時を繋げて目の前にみせてくださった瞬間でした。
これがまさしく歴史を、我が事とする極意であると感じ入りました。
そして、いつもの先生の微笑みのあと、会場では、こころ暖たまる笑いがおこるのです。

こんな風に「法隆寺の謎と、聖徳太子の運命」についてご講義いただきました。

ときに静かに目をとじ、ときにユーモラスに微笑み、西山先生は語ってくださいます。

そして、先生は、日本書紀に書かれている聖徳太子の伝説のひとつをあげ、太子が本当に未来を見通せたのだとしたらと、深い悲しみの息遣いをされました。

今回のテーマである、聖徳太子と法隆寺の関係。その後の法隆寺の焼失、再建のなりゆき。太子の子孫と、大化の改新で殺害された蘇我入鹿との因縁、入鹿の陰謀をまんまと逃げおおせられたはずなのに、十七条憲法を書いた父の遺志をまもり、法隆寺にて一同で自害した子孫の思い。

のちに、おこるだろう、それらの悲劇を、聖徳太子がわかっていなかったわけはないと、先生は我が事として、歴史を引き受けられていたのでした。

じかに、お話をいただけたこと、本当に、贅沢な、至福の時間でした。ありがとうございました。

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