11月『数寄屋建築』講師:日向 進 先生

日時:11月16日(土)14時~16時
会場:六本木/国際文化会館
講師:日向 進 先生

「日本の心」といったときに今、最も触れる機会の多い詫び茶の世界、
その空間として数寄屋建築が装置としてどのように働くのか。
昨年『数寄屋大工』展にて中村昌生先生と監修をされていた日向進先生に授業をお願いしました。
当日の授業の内容を展覧会の図録にある先生の見解とあわせて以下に記載します。

sukiya

数寄屋は軽快で瀟洒なたたずまいを造形の基調とする。
屋根の勾配は緩く、軒は深い。柱は細く、壁は薄い。
このような物理に反する建築を実現させるためには外見に現れないところの構成にも
格別の工夫を凝らさなければならない。

自然の丸太や竹など「丸もの」を使う技術が数寄屋建築の特色である。
神社仏閣、宮殿を立てる技術を真行草の『真』とすれば、
「丸もの」でつくる数寄屋建築は『草』の技術である。

丸太と竹 素材と和する倭の心

あをによし 奈良の山なる 黒木もち 造れる室は 座せど飽かぬかも
——奈良の山から伐り出した黒木(製材加工していない皮付き丸太)で
つくった家にいるときこそ平穏な安らぎを得ることができる——(『万葉集』聖武天皇)

丸太造りの茅屋に対する親近感は、中世、近世を通じて継承されていく。

足利八代将軍、足利義政は邸宅・室町殿に黒木造りの茶屋をつくり、
山荘・東山殿(慈照寺銀閣)には竹の茶屋(竹亭、漱蘚亭)をつくっていた。
やわらかさや繊細さを感じさせ、物理的な強さをあわせもつ竹も、
自然と共存してきた日本の住まいには身近で入手しやすい素材であった。

神社仏閣や宮殿の建築とは異なり、形式にとらわれない建築表現が可能であった茶屋にとって、
丸太(黒木)や竹はもっともふさわしい素材であった。
丸太や竹は、自然のもつ働きに人工以上の価値を認めるという心情に支えられて
自然の景趣を導入することに造形の基点を置く茶室の主材料となる。
丸太や竹で組み立てる数寄屋の技術は
このような宮中の人々の心情をベースに育て上げられてきたのである。

唄会の空間から茶会の空間へ

茶室は古くは「小座敷」とか「茶湯座敷」とよばれていたが、
それは美術品が飾り付けられた、
小さい(狭い)畳敷きの部屋=座敷で茶の湯が行われていたことによる。
そもそも茶室の起りは茶の湯そのものからではなかった。
和歌や俳句をたしなむ唄会の場が宮中の寄り合いの始まりではなかったかと考えられている。
唄会をもってその中で嗜まれていた茶がやがて寄合の主題にうつっていく間、
その会場となる空間も徐々に進化していく。

茶は遣唐使によって中国から伝えられた。
国風文化の栄えた平安時代当時は、
一部の貴族が寺院などで飲まれたくらいで、茶が一般的に広まることはなかった。
鎌倉時代、栄西が宋から茶を再び日本に招来した後、
茶園を開く等、徐々に広がりをみせ、やがて嗜好品としての意味合いが大きくなる。
そして茶を介しての寄合が、武将や僧侶の間で盛んになった。
会衆が寄り合い、親密な時間と空間をともにした文芸や遊芸の場の構成や意匠が整えられ、
「座敷」という空間が室町時代に成立する。

侘び茶はこのような空間のなかに胚胎し、洗練されていった。

茶の湯空間における装置

美術品を飾り付け、寛いだ雰囲気のなかで主客が寄り合い、
親密な時間と空間をともにした文芸や遊芸の場を母胎として成立したのが侘び茶の座敷である。
侘び茶は「物スクナク、浄ク、手カロ(軽)クスル」境地を理想とする。
そのため、侘び茶の空間は極力しつらえ(舗設)を省く方向に進んだ。

[ 炉 ]
炉=囲炉裏は茶室に不可欠の装置である。
炉は湯を沸かすとともに、団欒や接客の場となり、客座と点前座をつないで
一体感をもたらすために重要な役割を果たしている。

[ 露地 ]
茶室の前に広がる庭を「露地」という。
茶の湯は露地と茶室が一体となってはじめて成り立つ。
茶の湯を積極的に推進したのは堺や京都、奈良など都市の富裕な住人であったが、
茶の湯の空間は日常的な世界から隔離されなければならなかった。
そのため、歩きながら精神的浄化をして、清閑な別天地に移る空間装置としての通路がつくられた。

徐々に精神性が強調されるようになると、江戸時代中期頃からは仏典にみられる「露地」の文字が用いられるようになる。

[ 床(床の間) ]
席入りした客は、まず床前に躙り寄り、扇子を前において一礼し拝見する。
床には書画や花、器物が飾られ、時節や客、趣向などにふさわしく演出される。
床の前は上座として尊ばれる位置であり、座に一定の秩序が保たれていることが示される。
誰も坐さない床を備えることによって、主客が同座する席は寄合の場であるという性格が
いっそう明確に認識され、座中の人々に平等性を与えた

 

乱世混沌の時代、人々が狭い土地に混在する京都での居のすがた

16世紀前半、村田宗珠(村田珠光の嗣)は京都下京の屋敷につくった
四畳半や六畳の座敷で茶の湯を行っていた。
それは「山居之躰」「市中之隠」であったと伝えられている。
都市のただ中にありながら、松杉蒼々とした「山居」の趣が茶の湯の環境を包んでいたのである。
市中にありながら遁世者として世を過ごす、それは宮中人の理想の居の姿だったのだろう。

「異風になく、けっこう(結構)になく、さすがてぎハ(手際)よく、目にたヽぬ様よし」
利休の京都屋敷のたたずまいをあらわした言葉は、数寄屋造りの本質をよく伝えている。
目に立たないように造形された空間において平和でくつろいだ気持ちになれる

そのことを徹底的に追求するのが茶室なのだ。

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