仏教って何だろう〜異国人僧侶の思索

和塾品川連・第二十六回お稽古
日 付:平成23年8月17日
会 場:グランドプリンスホテル新高輪 和室「秀明」
講 師:

この世は苦しみである、としたニーチェ。この思想は、彼が学んだ仏教の影響を強く受けているのですって。ドイツの哲学者に大きな影響を与えた「仏教」について、高野山のスイス人僧侶・クルト厳蔵さんにお話しをいただきました。和塾名物?異国人による日本文化講座。囲碁・禅・くずし字につづく今回はその第四弾。気がつけば、ほとんど外国人のような文化的環境で大きくなった塾生諸氏にとっては、異国人による和文化の話しがの方が日本人専門家の話しより分かりやすかったりする。さて、今回はどうでしょう。

クルト厳蔵先生

クルト先生によると、仏教とは幸福な生活のための教えであり、悟りを開くための修行であります。瞑想を通して、より高くより研ぎ澄まされた精神的体験を求める。仏教の中心は神ではなく人間です。ホリスティックな存在としてすべてを受け入れ、寛容と慈悲の心を育てる。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」に取り込まれた仏教思想も、このような理解によるものなのです。

ところが、我々のような日本人にとっては、仏教はもっと生活に近しいところに存在している。そもそも、一般の日本人が僧侶と出会うのは、葬式の時くらい。より高くより研ぎ澄まされた精神的体験、というようなものでは・・ありませんね。

だから、「仏教は悟りへの知的アプローチで、瞑想は心の真実へと入っていくための洞察力を深める手段であり、悟りは涅槃というあらゆるものから解き放たれた自由に繋がる」と考えて日本やアジアの国々にやってきた西洋人は、面喰らいます。その実像が自分たちが抱いていたイメージとは全く異なるからです。

オーストラリアからきた禅僧が九州の寺の禅老師のもとで修行し、老師のやり方は禅ではないと腹を立てた、なんてこともあったとか。

30年前に日本にやってきたクルト先生も同様の体験をされています。はじめて高野山に入った先生はそこが「真の仏教都市」であり、「町そのものが、道場だ」という印象を持った。より高くより研ぎ澄まされた精神的体験への期待は否応なしに高まります。ところが、そこで執り行われる修行は、ひたすら型を繰り返すような毎日で、「悟りへの知的アプローチ」というようなものではありません。修行僧たちは、多くの場合その意味を理解せずにお経を唱えます。内容について議論を戦わせるようなことは一切なく、教典をひたすら丸暗記する。修行僧の集団生活は、先輩・先達を重んじ、それに同意し、命令に従い、決して逆らわない。そこに思索はなく、あるのは繰り返される型だけです。個人を重んじ、言語的・記号的理解を求める欧米のあり方とはまるで異なります。そして、僧侶たちの日常は、ほとんどが先祖供養の回向に終始しています。日本の仏教は「葬式仏教」でしかない、と見える。瞑想はどこ? 悟りへの道はいずこ? というわけ。

こうした異国人、特に欧米の人々の疑問は、現代の日本人と共有するところが大きい。我々もまた、彼らのような思考文化(個人の尊重や記号的理解の追求)にどっぷりと浸かっているからでしょう。だから、欧米人にとっても、現代日本人にとっても、修行はとても厳しく、そこに継続への意味は見いだしにくい。人気は低落し、新規参入が激減し、競技人口が極端に減少する。伝統芸能や伝統工芸の世界も同じですね。仏教の世界でも、修行者の大半は寺の子息たちで、大いなる意志を持って修行の世界に入る、といった人物は、まああまりおりません。

けれど、クルト先生は、そこであきらめて帰るのではなく、それを受け入れそれを楽しもうとした。素晴らしい。繰り返される型の中にも、比類なき芸術性と文化的価値を見いだし、その記録を長期間にわたってとり続けておられます。外国人と日本人の間に見解の相違があっても、二元論的な考えで争うのではなく、ともに進もう、と。

お稽古は、二元論的思考を捨て、宇宙と一体となる心を持って、「南無大師遍昭金剛」を七回唱えて、お開きとなりました。

日本の仏教は思索ではなく型である。という欧米の理解について、筆者としてはもう少し先生と話しをしたかった。この次お会いした時には、少しゆっくりと、そんなお話しをさせていただきたいですね。クルト先生、ありがとうございました。

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