和塾の思い・その3 / 「カルチャー」のある「エコ」を

和塾の思い・その3 / 「」のある「」を

グリーン・ニューディールなんてことが注目を集めているようです。とりあえず今は「」ですな。あらゆる企業がエコを標榜し始めています。自動車も家電も食品も流通も。コンピュータまでエコと言ってる。風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話しで、素人にはその関係がよく分からないものもあります。
ともあれ、これから世界は「環境」を軸に回っていくようで、それはそれで結構な話しだと思います。環境に優しく生きる。持続可能な社会をつくる。スローライフを目指す。人間の行動指針として、こうした考え方は素晴らしい。地球の未来を考えれば、エコじゃない行為はよろしくない。だから今は、世の中こぞって地球環境に優しくならなきゃイカンと。クルマに乗るならエコ・カーでなきゃイカンと。冷蔵庫を買うなら省エネタイプね。二酸化炭素の排出量は原子力発電がいちばん少ないんだって。出張も新幹線でエコに行く、と。
まあ、なんだかどれも否定しにくい響きがあるけれど、妙に引っかかるものがある、なぜでしょうか?


エコな社会というのは、それまでの社会を、世界の合い言葉「チェンジ」でもって変革し、今までとは異なる社会をつくるという行為なんだと思います。これからの社会にはエコが必要だから採用するのだと。ところが、この考えには必要条件への視点はあるものの、十分条件への考察が欠けているのではないか、というのが本稿の問題提起。エコという必要条件が絶対であるがために、もう一方を忘れてしまっている。だから今の「エコ」、どこか引っかかる。

例えば、ハイブリッドなエコ・カー。ガソリン消費量が少なく、CO2の排出量も少なく、騒音も少ない。今どきガソリンをガブ飲みするようなマッチョなクルマに乗るのは恥ずかしい。ということで、ハリウッド・スターまでもがエコ・カーに乗っています。従って、自動車メーカーとしてはこの「売れ筋」ラインを増強し、他社に先駆けて世界中にエコ・カーを供給しなければなりません。エコに乗り遅れたメーカーは淘汰されてしまう可能性まで考えねばならない。広告宣伝もエコ・カーを前面に打ち出し、販売拠点ではイベントにキャンペーン。豪華なパンフレットを作成し、インターネットで動画配信。不況風を吹き飛ばし、売って売って売りまくる。競合他社に市場を奪われてはならない。工場ではさらなる効率化で一層の増産を。店頭では一層の顧客獲得を目指してさらなるノルマを。というようなことになりますね。でも、これって、なんだか妙だと思いませんか?
つまり、この状況というのは、ただ扱う商品が変わっただけでそれ以外は何も変わっていない。非エコ・カーをエコ・カーに変えただけ。その他の行為はそれまでとまったく同じことが継続している。そこが、どうも引っかかるのです。

何も変わってはいないことによる「引っかかり」をもう少し分かりやすく表現すれば以下のようなことでしょうか。
例えば、エコ・カーの製造現場。下請け会社を絞りに絞ってコストダウンをはかり、本社工場前の公道を占拠した運送会社のトラックで在庫を調整し、契約社員に期間工、派遣労働者を酷使して人件費を抑制する。効率を徹底的に追求し、利益の最大化を目指し、右肩上がりの成長目指して。大量生産・大量販売。世界経済を牽引する自動車産業の新たな挑戦だ。というようなことですね。これはやはり引っかかる。

確かに、排気ガスを垂れ流しエネルギーを浪費し続ける非エコ・カーを製造販売するより、環境に優しいエコ・カーを製造販売する方が「よりまし」ではありましょう。しかし、それをもって環境に優しいなんて言われると違和感を感じるのは筆者だけではありますまい。派遣労働者や下請け工場は「環境」には入らないということなのでしょうか。

このような浮ついたエコなどというものは、状況次第でたちまち馬脚を露わします。例えば、今よりさらに経済状況が悪化して、さすがのエコ・カーも売上が減少した場合どうなるか。まずは調整弁たる派遣労働者から切り捨てますか。倒産必至であっても下請けへの注文は控えることとしましょうか。在庫を調整しなければならないから、少し圧力などかけながら、社員にエコ・カー、買わせますか。事態は結局そのように推移する。つまり、扱うモノが新規の売れ筋商品にさし替わっただけのこと。会社とか経営陣とか本社社員とか、基底に流れる考え方は同じなのです。その思想と哲学に「チェンジ」がない。それがエコなら、それでよいのでしょうか? 一人一人の人間を顧みないような行為を組み込んで進めるエコが、環境に優しいというのは、矛盾してはいませんか?

問題は、地球にとって必要条件たる「エコ」を進めるにあたって、その十分条件が考慮されていないことではないか。何をもってエコを進めるのか。エコを駆動する推進力は何なのか。それを考えないままで、人びとがただ「エコ」だけを錦の御旗に走り始めている。これまでの論法をそのままに、アウトプットだけを「エコ」に切り替えるような行為は、結局大きな問題を積み残し、解決をたんに先送りするだけのことになりかねない。

人間に対する思考が問われています。思想と哲学を鍛え直す時が来ています。

財務とか会計とか、効率とか生産性ではない視点。IT技術とか金融工学とか、遺伝子操作とかブランド・マーケティングとは異なる論理。これまで当たり前のように我々を取り巻いていた、いささか底の浅い思想と哲学を問い直さねばなりません。

唐突に感じるかもしれませんが、日本の文化を学び直すことに、ヒントが隠れているように思います。豊かで深い我が国の文化には、TQCとか金融工学などどいう浅薄な論理は一切組み込まれていない。たかだか数十年の歴史しか持たない財政学やブランド論などとは大きく異なる基盤がある。土台が違います。
しかも、長い歴史を持つ日本の文化は、そのすべてがとても地球に優しいものです。エコなんてことばなどなかった時代に、現代より遙かに優れたエコがあった。今どきの浮ついた「エコ」とは、性格の異なるエコがあった。
未曾有の経済危機を「エコ」にすがりついて切り抜けようとする類の貧弱な基礎の上に立つものではなく、もっとしっかりした土台の上に新しいエコを築くために、日本の伝統的な文化がたくさんのことを示唆してくれるのではないかと思うわけです。文化とふれあうひとときは、少なくとも、これまでの論理とは異なるフェーズで物事の理非曲直を考える機会を与えてくれるはずです。

エコをエコノミーだけで考えるのではなく、カルチャーを通して考える。エコを推進する力の源泉について考察する。取り扱い商品を「エコ」に差し替えるだけではなく、その背景や基盤から差し替える。カルチャーを通して、社会の思想と哲学の「チェンジ」を目指す。そうでなければ、流行の「エコ」は、まさしく「今、売れ筋の流行商品」で終わってしまうでしょう。カルチャー(に導かれた思想と哲学)による支えのないエコではダメなのです。

いささか迂遠な話しではありますが、和塾の思いは、そんなところにもあるのです。旧き日本の文化を知ることを通して、未来への思想と哲学を見つめる。例えば「エコ」に対しても、カルチャーの視線を加えることによって、新たなフィロソフィーによるエコを目指す。そのようなことなのです。

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