和塾の思い・その1/「ないものねだり」をやめる

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この辺は本当に何にもなくてねぇ・・・・・
都会の人が「田舎」を訪れると必ず耳にするセリフです。確かに田舎には何もない。綺麗な商品が並んだデパートはない。大きな書店はない。シネコンはおろか小さな映画館ひとつない。ブランドもののブティック、影も形もありません。スポーツクラブもない、ディスコもない、洒落たイタリア料理屋もない、CDショップもDVDショップも見あたらない、ジャズクラブもライブハウスもコンサートホールもない・・・。田舎はつまり何もない所なのだ。
けれど、都会に住む人間は、しばしばその田舎に憧れ、繰り返し足を向けます。そんなに何もない所の、いったい何が人々を引きつけているのでしょう。きっと何かが「ある」のですね。何もないはずの田舎には人間を引き寄せる素敵なものがたくさんあるのじゃないか。

思えば人間は、今までずっと「ないもの」を「あるもの」にする歴史を積み重ねてきた。土で器をつくり、石で家をつくり、鉄で乗り物をつくった。羅針盤や火薬や印刷機を発明した。蒸気機関ができ、ガソリンエンジンができ、原子力で進む船ができた。算盤、計算尺、電子計算機、スーパーコンピュータ。今はまだないけれどあればきっと素晴らしい。そんな考えで人間は次から次に新しい何かをつくりつづけてきたのです。それは、たぶん人間だけが持つ素晴らしい特質だった。「ないもの」を見つけて「あるもの」にする。人間世界の発展はこの思考と活動が支えてきたのです。
20世紀にさしかかる頃から、この「ないもの」を「あるもの」にする人間の活動は飛躍的に高まります。それまでなかったものが、新たな技術力をてこに開発され、大量生産・大量輸送・大量消費の波に乗って世界中に送り出される。おかげで世の中は便利で効率的でお洒落で清潔で刺激的なところになった。その後も尚、人間はこの活動を止めることがない。長年鍛えられた人間のこの「ないもの」を見つける能力は誠に素晴らしい。その「ないもの」が本当に必要なものかどうかはともかく。
そういえば我々も小さな頃から「ないものねだり」が得意だった。大きくなることはつまり「ないものねだり」をつづけていくことだった。おもちゃの自動車や怪獣の人形や新しいボードゲーム。ラジオやデジタル時計やバイクやパソコン。もう一着今年の流行色のコートが欲しい。新車はやっぱりナビ付きでなけりゃ。。画素数がさらに大きな最新のカメラを手に入れたい。美味しいものを食べすぎて少々肥満気味なので最新のランニングマシーンを自宅用に購入しよう。全部で150チャンネルの衛星放送に加入しよう。世界で限定200本しかない新素材でできた2500万円の機械式腕時計をローンを組んで入手しよう。資産運用なら最新の金融商品を組み入れて・・・。
「ないもの」は本当にいくらでも見つけることができるものです。そして、それを「あるもの」に変えることが、我々の幸せであり豊かさの指標だったのです。

けれど今、この、人間が「ないもの」を「あるもの」にする行為が、少なからぬ問題をはらんでいることが分かってきた。大量生産は必然的に大量廃棄を生む。ないものねだりの背後で多くのものが失われていく。人間の欲望を際限もなく刺激し、あらゆる消費を礼賛し、さらなる生産を目論む。そもそも、必要を遙かに越えたモノの氾濫が人間を幸福にしているのか。他人よりもより多く所有することに高い評価を与えることは正しいことなのか。
あらゆるメディアが今日もまた人々に「ないもの」を提示しています。あなたの携帯電話にはテレビがついていない。あなたの家には床暖房がない。あなたはまだ新作のバッグを持ってない。あなたの頭には毛がない・・・。そんな言葉に追い立てられて生きてゆくことは良いことなのですか。それは人々や家族や社会を心地よい場所にしているのか。地球を豊かにしているのか。

話しはここで何もない田舎に戻ります。
田舎が人々を引き寄せるのはそこに何かが「ある」から、ということです。
そこには海があり山があり川がある。海の中には沢山の生き物がいて、砂浜があって岩場があって流れ着いた流木がある。山に入れば鳥の声が聞こえ足下からキノコが顔を出している。小粋なフランス料理屋はないけれど、獲れたての川魚を焼いて食べられます。ジャズクラブで異国のミュージシャンの演奏を訳知り顔で聴くことはできませんが、おばあちゃんの昔話が聞けたりもします。
つまり、田舎では「ないものねだり」は意味がない。あるものを探しそれを楽しむことが幸せの秘訣。大切なのは「あるもの探し」「あるもの遊び」「あるもの喜び」の心意気です。「ないものねだり」じゃない。そしてそれは、ひょっとすると「ないものねだり」よりずっとおもしろい。しかも地球に優しい。そう思いませんか。
つまり、何もない田舎の楽しみには、これから人間と地球が進むべき方向が隠されている。それは、ないものねだりに基づいて新たな存在を加えることではなく、既にあるものを存分に味わいその価値を十分に評価すること。既にあるものをできる限りそのままのカタチで未来に向けて残していくこと。既にあるものの豊かさを心ゆくまで堪能すること。そのために人間が少し努力すること。そんなことでしょうか。

実は、和塾の活動を支える思いのひとつもここにあるのです。「あるもの探し」「あるもの遊び」「あるもの喜び」。日本には我々の知らない素晴らしいものがたくさん「ある」。ウォーホールやピカソはないけれど、北斎や宗達がある。シェイクスピアはいないけれど近松がいる。シャネルはないが友禅がある。「ないものねだり」の手を少し休めて、自分の近くにある素晴らしき存在に思いを寄せる。そんなことだったのか、と驚く。興味に任せてさらに深く知る。見て、聞いて、触れて、感心する。自分でやってみる。食べてみる。使ってみる。調べてみる。生まれ育ったこの国が、既に充分豊かで奥深いことを発見する。田舎を訪れた時に感じるような幸せな気分。いくらでもあるじゃない。しかも、そこに「ある」ものは、たいていがアメリカやイギリスやイタリアには「ない」もので、ちょっと誇らしい。豊かな気分に浸れたりもする。

少し大きな事を言うとすれば、大量生産・大量消費を基盤とする過剰な価値創出による歪んだ豊かさを見直す思想と行動がそこにあるのです。ここから、日本はもとより地球が進むべき別の道筋が見えてくるかもしれない。ずっと昔から身近に「ある」ものを学び、楽しみ、喜ぶこと。その価値を存分に評価し次代へとそれを受け継ぐこと。良からぬ未来が見え隠れする世界をなんとか少しでも良き地とするための行動指針。「あるもの探し」「あるもの遊び」「あるもの喜び」。それが和塾の原理原則のひとつなのです。やってみる価値はあるのじゃないか、と思いませんか。それで世の中の何かが少し変われば良いのだけれど・・・。

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