日本文化市場論 第六話

日本文化について考えてみる。第六話

→第一話「往復書簡の趣旨」
→第二話「閉じられた衰退市場」
→第三話「厄介なスパイラル」
→第四話「中心的価値と新機軸」
→第五話「守ることは眠らせることじゃない」



ロックと文楽、ジャズと尺八など、日本の伝統文化はその窮状をなんとかしようとさまざまな試みを実施しています。でもそうした試みにはいつもなんだか違和感がつきまとう。 市場論を読んでその理由が論理的に理解できた気がします。新たな試みは必要でしょうが、ブランドの本質価値に基づいたものでなければキケンである、と。なるほどね。だから受け手に妙な違和感があったんだ。勉強になります。

連載第六話は、日本文化をブランド価値の視点から論じる。まとめの一篇です。

トール殿

拝啓
結局のところ、コアバリュ(中心的価値・ブランドエッセンス・基本価値)をしっかりと見極め、そこから目をそらすことなく、それを基軸とし、行動の指針とすることこそが肝要である、と。まるで教科書的な落ち方ですが。
けれどこれは、今こそ再び問い直す必要を感じます。そもそも「日本文化のコアバリュは何であるか」という問いが発せられること自体希であり、かつ、内部にいる人びとにとってそれはあまりに自明に過ぎて気づきが薄い。当たり前すぎて飽きちゃってる、てこともあるでしょう。そんな風だから、コアバリュとあからさまに衝突するような行動に走ってしまうことがある。
葛西聖司先生が司会をされている芸能花舞台。先日の放送に芸術祭で入賞した日本舞踊の舞踏家たちが出演していました。こんな憎まれ口をたたくとまた怒られそうですが、その舞踏、いただけなかった。日本舞踊の素晴らしさを多くの人に伝えたい、という彼らの心意気は良しとするも、舞台を集団で跳ね回っているその舞踏はブランドを破壊するような代物でした。舞の質を言ってるんじゃないですよ。そのベクトルが問題だと。コアバリュとの整合性が問題だと。「日本舞踊の素晴らしさ」つまりその中心的価値を多くの人びとに伝えることになってない。(あ〜そこのコアファンのあなた、怒ってはいけません)それは、例えて言えば、もっと多くの人にその素晴らしさを伝えようとして、ポルシェがファミリー向けのミニバンを、あるいはお買い物に便利な軽自動車を販売するようなもの。(結果、短期的に売上が増加することがあるとしても)それでポルシェの素晴らしさは伝わらない。どころか、場合によってはブランドを破壊してしまう。
新たな顧客を獲得するために、何かしなければならない。伝統文化をもっと多くの人びとが関与する存在に引き上げたい。その素晴らしさをさらに大きな市場で披露したい。だから、何か新しい試みを実行しなければならないのだ。という彼らの気持ちはとても良く理解できる。だから、この場であまり辛辣になるのは気が引けるのですがね。
最高のスポーツカーを中心的価値とするポルシェだって、新たな顧客を獲得したい。さらに大きな市場を確保したい。実際、SUVや4ドアの市場参入は試みています。しかしそれは、コアバリュをまさしく核とした強固なブランド構築の上での、コア・アイデンティティとの整合性をしっかり検討した上での、拡張アイデンティティの発露なのです。

歌舞伎のような、ポルシェ並みのブランド認知と理解をもつ存在でも、(伝統文化の中心的価値と不整合を起こす)新作系はリスクを伴います。まして、認知・理解とも低水準の日本舞踊などでは、まず行うべきはそのコア・アイデンティティの再認知と強化ではないか。新たな取り組みも、まずその中心的価値をしっかりと見極める。その上で「見極めた本質的な価値に基づき、ブランドの表現としての現象面をどんどん変革して行く」ということなのですな。

12月の12日、杉並能楽堂にて「固く守りて滅びよ」の東次郎先生が『東西迷(どちはぐれ)』という狂言を演じました。この狂言「復曲狂言」なのです。大蔵流中興の祖と呼ばれる十三世家元・大蔵虎明の残した狂言台本「虎明本」にのみ残された作品で、これまで上演されたという記録はない。大蔵虎明というのは江戸時代初期の狂言師で、没年が寛文2年(1662年)という人ですから、その後一度も上演されていないということなら、実にほぼ350年ぶりの復曲ということ。東次郎先生が平成の世にこれを演じた。
これ、中心的価値に基づいた新たな挑戦、ということですね。しっかりと見極められた本質的な価値とベクトルを合わせた上での新たな取り組み。素晴らしい試みです。ちょっと地味なのが難点ではありますが。
東次郎先生のこうした挑戦と、マイケルばりの集団ダンス日本舞踊。コアバリュ=中心的価値との整合性が異なります。同じ新たな挑戦でも、ブランドの構築とその進展に対する視点の差が現象面に現れている。ブランドは常時継続的に更新され、再定位されなければなりません。さもなければ死あるのみ。移りゆく時代の中で、生活者が購入するための理由を明確化し、それを時の変化に則して継続的に伝え続けない限り、生活者は購入することを止めてしまう。ただし、(ここからが重要)その「更新と再定位」は、ブランドの最重要の価値を正しく確定した上で、それに基づいた更新であり再定位であらねばならない、ということなのですね。

ま、論評するのは容易ですが、具体論を示せ、と言われそうですな。
でも、具体論の前にもうしばらく、日本文化を取り巻く課題について論を進めたい。進めることによって、さらに多くの視点から考察することによって、具体的行動指針も自ずと見えてくるのではないかと思うからです。

そこで、ちょいと話題を変えてみます。
今月、文楽の東京公演がありました。我々和塾の有志も久しぶりの公演に出かけました。日曜日の午後、国立劇場はそれなりの客足で盛り上がっていた。和塾では、事前に切符を確保してこれを塾生に告知、希望者を募って配布している。今回もこれまで同様この方式で対応したのですが、希望者がいつもより少なくて少々苦労した。師走12月のことですからね。なんだかだで結局半日がつぶれるこうした古典芸能は、特に初心者にとっては、ちょっと出かける系のお気軽エンタテインメントではない。出かけるのはそれなりの覚悟も必要です。クリスマスも近いから、お買い物もしたいし、11年ぶりに復活した表参道のイルミネーションも気になる。家族サービスが必要な季節でもある。忘年会だとか、ホームパーティの予定もある。そんなこんなで、伝統芸能・文楽の切符も即完売というわけにはいかなかった。

で、思ったのですが。(またちょっと憎まれ口ですが)はたして送り手の方は、そんな現状を考えてみることがあるのかな、と。例えば、古典芸能公演の切符。購入を決意するまでの顧客の思い。彼らがどんな選択肢を検討し、どんな基準で比較し、どんな動機で決断しているのか。貴重な12月の休日に、どこに誰と出かけるのか。そのために何が必要で何を諦めねばならないのか。対価に対して何を期待するのか。どの選択肢が最良なのか。
競合を意識しているのか、と問うことも出来ましょう。古典芸能といえども孤立して存在しているわけではなく、それは今の社会の中にある。そこには、ハリウッドの映画もあればラスベガスのショーもある、ディズニーランドもあれば旭山動物園もある。ミシュラン片手に話題のレストランに出かけ、イルミネーションに囲まれた都心のスケートリンクでデートって選択肢もある。

文楽の切符は、公演前日の夜やっとのことで完売した。日本文化にそれなりに興味関心のある人びとにしてこの状況。現代のエンタテイメント消費において、競合は強力なんですよ。伝統文化サークルの皆さまは、そんなこと考えたことあるのかな? あ、また憎まれ口ですが、愛しているからこその一言ですよ。
競合とか競争市場とかポジショニングの問題。考えてみたい課題です。

では、今日はこんなところで。

敬具

※次回はトール君の返信。1週間以内に返すがルールとなってます。お楽しみに。
※ご意見ご感想お寄せください。

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