日本文化市場論 第五話

日本文化について考えてみる。第五話

→第一話「往復書簡の趣旨」
→第二話「閉じられた衰退市場」
→第三話「厄介なスパイラル」
→第四話「中心的価値と新機軸」



日本の文化、伝統文化をブランド論から考える。連載はいよいよ文化「市場」論らしくなってきましたね。ブランドのコアバリュとブランドの行為の整合性。そんな視点から文化が語られた事なんて、ちょっとなかった。このとても新しい取り組みから、何が産み出されてくるのでしょうか。楽しみですな。

今回は、連載第五話。ブランドの本質と現象の見極めについて語ります。

こうぢ殿

たしかに大蔵流の家言には、ちょっとドキッとさせられましたね。現代をめまぐるしく生きる我々をはっとさせる、凛とした矜持とでも言いますか。広告屋風情には耳の痛い皮肉に聞こえなくもない。しかし、ここで言う「乱れて盛んなる」とは、果たして一切の新しい試みを指すものなんでしょうか。守るべきは守りながら、乱れることなく、新しく攻めて行く可能性はないものか?

価値を守ることと、価値を眠らせておくことは、別なことだと思うのですよ。

もしかすると、守りと攻めの議論の中で大切なバランス論とは、何を守り、何を変えて行くかの選択、つまり価値の「本質」と「現象」の見極めなのではないでしょうか。

ブランドをめぐる現場の議論の中でも、長期的なビジネスの成否の鍵となるのが、この見極めです。
そしてこれが意外に難しい。結構ちゃんとした企業でも、何がそのブランドの本質的な価値なのかは、意外に把握・共有できていないことが多いものです。
結果、ひたすらな守旧、無謀な改革、本末転倒の政策、優柔不断な経営判断、などを招いたりします。

各企業で経営の多角化がもてはやされたことがありました。
バブルの頃には余剰資金の活用として、あるいは「メセナ」と称した社会貢献活動の一環として。景気が後退してくると、本業の不調を補うためのサイドビジネスとして。
本業とはほとんど何の関わりもない新規事業に乗り出す企業を、我々はたくさん見てきました。
もちろん中にはそれが奏功した例もあるでしょうが、惨憺たる結果に終わった例も多かったように思います。少なくとも、そうした多角化で企業ブランドの本質的な価値が強化されたケースは稀でした。
これはまさに「乱れて盛ん」の果ての姿と言えるでしょう。

一方で、時代とともに本業のビジネスがどんどん姿を変えて行っても、変わらぬブランドの価値を保ち続けている企業もあります。
わかりやすい例で言えば、アップルコンピュータなどがそうでしょうか。
ワンボックス型のパソコンで一世を風靡し、その後迷走した時期もありながら、iMacで復活。CPUをインテルに変えるという大変革を経て、今は携帯音楽プレーヤーと携帯電話がアップル/Macブランドを代表する商品になっている。こんな変遷を経ながら、しかしそこに我々は、一貫したブランドの「らしさ」を見ることができます。
それはデザインテイストやブランドロゴといった表面的なものにとどまらず、ユーザーである我々が商品に出会った時の驚きや喜びや、使って感じる人間くささなどに共通して感じるときめき、そうした無形の「らしさ」です。
そしてそれこそが、アップルというブランドが人々にもたらしたい本質的なブランドの価値なのだと思います。(こうしたところをきちんと見極めないまま、機械的に見た目のアイデンティティの統一に腐心しているブランドは、結構多いものです。)
iPodのパッケージなんて、モデルごとに毎回違っていて、見た目の統一感なんてありませんよね。でも、手にしたときや開けたときに、「えっ、こんなに小さいんだ!」というような新鮮な驚きを感じる、その感覚が見事に共通しています。

きちんと見極めた本質的な価値に基づき、ブランドの表現としての現象面をどんどん変革して行くことで、常に鮮度と刺激のあるポジショニングを能動的に守っている。つまりこれは、攻めることで守っている、という成功例かな、と思います。

ご指摘のようなファッションブランドなどは、その極端な例ですね。ファッションというのは人の感覚を刺激して魅惑するのが存在意義なので、人気の出たデザインパターンやテイスト、広告表現などの「様式」には本来的な価値はない。むしろ定着したところで思い切って打ち壊していくことにより、本来の価値である「感覚」の復活を目指す。
それは、彼らが守りたいのは確実な実績があるパターンではなく、その時々の感性に照らした見え方、刺激の質やレベル、ブランドに接した人が受ける感覚、といったものであり、それこそが本質的価値だと見極めているからだと思います。

絶対値と相対値は興味深い視点ですね。
ハンバーガーやコーラが日本で最初に普及した時も、一気にみんなの口に合ったかどうかは別として、相対値としての「新しさ」が普及の大きな原動力となったことは確かです。
今は「和」なるものが、ちょっと新しい。
空前の歴史ブームなどと言われていますし、若者向けの和服リサイクルの店などを見ていると、日本文化への興味の入り口としての「新しさ」を、多くの人が感じ始めているのは確かだと思います。現代人の視点で江戸時代の人の生き様を再評価するようなドラマも人気のようですし、最近の小学校の教科書では、江戸の町が高度なリサイクル社会であったことなどを強調していたりします。
ただ、「新しさ」というのは飽きやすくうつろいやすいもの。表面的なブームを超えて、より深い理解や行動に人々を導くのは、それはそれで結構難しそうですね。

※次回はこうぢ君の返信。1週間以内に返すがルールとなってます。お楽しみに。
※ご意見ご感想お寄せください。

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