ー小笠原礼法〜胸をはって姿勢良く生きることー鈴木万亀子先生 第二十一回和塾

日時:2005年12月13日(火) P.M.7:00開塾
場所:銀座久のや

十二月のお稽古は「礼儀作法」。と、言われて無闇に緊張するようではいけません。
その緊張感が相手に伝わるようでは結果「礼を欠く」ことになるのです。礼儀作法とは相手のためのもの。『相手に意識をさせないで、相手に思いを寄せる』が正しい作法、というわけです。

鈴木万亀子先生

日本の礼儀作法といえば小笠原流ですが、これはもともと武家の作法。男のための作法だったとか。ですから、小笠原流には切り落とした首の仕舞い方も伝わっているのです。

正座のお稽古

お正月、お雑煮に角餅を入れる時は焼いてふくらませてから。これは、お正月には『陰』のものを身体に入れない、という作法からきたものです。丸い形は『陽』、角い形は『陰』ですから、角餅はふくらませて丸くしなければならない、というわけです。
世の中は陰と陽の和合でできている。生と死、丸と角、天気と雨、男と女。和数では、二・四・六・・の偶数が陰、一・三・五・・の奇数が陽になります。お正月の鏡餅は丸い形、すなわち陽。だから二段に重ねて陰と和合させるのです。菱餅を三段・五段に飾るのも陰と陽の和合なのです。

人日(じんじつ)の節供飾り

胸を張って姿勢良く「生きる」こと。これが礼儀作法の基本です。正座をする時も胸を張りあごを引き眼差しは「遠山の目付」で。お辞儀をする時も、頭を下げてはいけません。背中と頭は真っ直ぐに。首を折って頭を下げるのは礼儀の良いことにはならないのです。

先生による「浅いお辞儀」

塾生による「深いお辞儀」

■小笠原流のこと
小笠原流礼法は、室町時代より綿々と伝わってきた、日本の伝統的コミュニケーション体系。自分の内面にある「相手を大切に思うこころ」を的確に伝達するための方法論にほかなりません。
清和源氏の流れをひく小笠原氏は、源頼朝に仕えたといわれる長清(ながきよ:1162〜1242)の頃から弓馬に優れており、弓馬術を司っていました。室町時代になると貞宗(さだむね:1294〜1347)により、これらに礼式が加えられて弓・馬・礼の三法が小笠原の伝統の基盤となったのです。
礼法の基盤が出来上がったのは、足利三代将軍 義満の命により、今川・伊勢両氏と共に長秀(ながひで:1366〜1424)が、供奉、食事、宮仕えや応対の仕方から書状の様式、蹴鞠の型など武士の一般教養を目指したといわれる、「三議一統」の編纂にあたった頃と考えられます。その後、貞慶(さだよし:1546〜1595)からその子秀政(ひでまさ:1569〜1615)に伝えた「小笠原礼書七冊」といわれる伝書は、前述の「三議一統」以来加えられた今川・伊勢両家に伝わる故実をくみ入れた小笠原流礼法の整序につとめ、それが大成したもので、武家の質朴な礼の本義というべき性格を示しています。
江戸時代は、幕府の公式の礼法であるためお止め流とされ、また一子相伝のもと、一般に教授されることはありませんでした。しかし、徐々に経済の実権が商人の手に渡り、町人の側に実力がつくにしたがって、武士階級の礼儀作法の根幹である小笠原流を「格式のある礼法」として学びたいという声が大きくなったのです。そこで、小笠原流と称して町方に礼法を教授する人々が現れ、本来の「質実剛健・合理的」であった礼法の本質を理解せずに、華美で、ぎょうぎょうしく、難しい「お作法」を作り出してしまいました。
この流れは明治期にも変わらず、そのまま作法教育として女学校などで教えられることとなったのです。この時代に小笠原流の名のもとでおこなわれた女子教育は、その後の日本の礼儀作法観に大きな誤解を与える結果となりました。礼儀作法とは、堅苦しく、凝り固まったものであるという誤解を植え付けてしまったのです。
第二次大戦後、礼法教育は厳しい環境下におかれました。アメリカナイズされた自由・個人主義の強い影響のもと、日本人が持っていたはずの「相手を大切にする心」が薄れ始めました。前宗家故小笠原忠統は、このような日本の状況を憂いて、形式のみが先立つものではなく、相手に対する心が自らを抑制する美意識を通して、目に立たない、自然な型で現し、心と形があいまって完成するものこそが礼法である、という真の礼法を伝え広める為、自らが一子相伝の封印を解き、一般への教授を始め、生涯に渡り、礼法の普及活動に努めました。
その志は、現宗家小笠原敬承斎に受け継がれ、現在に至っています。


小笠原流礼法サイト:http://www.ogasawararyu-reihou.com/index.html

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