ー浮世絵〜ニッポンのアートー市川信也先生 第三十回和塾

日時:2006年9月12日(火) P.M.7:00開塾
場所:六本木 ロンドンギャラリー

浮世絵ときいて、あなたは何を想像しますか?
美人画、役者絵、東海道五十三次、或いは春画?
春信・写楽・北斎・師宣・国芳・・・。クロード・モネやファン・ゴッホに強い影響を与え、大英博物館やメトロポリタン美術館に多くの収蔵品があり、現在でも世界中に多くの蒐集家が存在する。日本が世界に誇る多色摺り木版画。それが浮世絵なのです。
けれど、その世界について、我々は多くを知りません。

三十回めの和塾のお稽古は、そんな浮世絵の世界について、歌川広重の画業と最近発見された彼の旅日記を中心に、那珂川馬頭広重美術館学芸員の市川信也先生から学びます。

市川信也先生

そもそも浮世絵とは何でしょうか?
「多色刷り木版画」という技法を用いた美術表現での一つ、という説明が一般的です。けれど、話はそう単純ではない。浮世絵には、時代の表象としての描かれる対象とその絵を生産、供給するシステムという他に類を見ない独自の世界が存在しているのです。

まずは「」という言葉の意味から読み解いてみましょう。
井原西鶴の「好色一代男」に初出が見られるこの「浮き世」という言葉は、国語辞典によると「江戸時代接頭語的に現代風・当世流行の」とあります。市川先生によるとこの「現代風」つまり「最新流行」という言葉が浮世絵の本質を最も端的に表しているとのこと。それを証する実例が、京都を手中に収めた織田信長が越後の上杉謙信に贈った「洛中洛外図屏風」にある。この絵こそが浮世絵の原点である、と先生は考えておられます。
洛中洛外図屏風は、当時の京都の最新の都市計画、最新の風俗、賑わいのある街とそこに暮らす人々の豊かな生活が描かれたもの。京都を手中に収めた信長は最大のライバルであった謙信にこの絵を贈ることによって、自分が得たものの新しさ豊かさを知らしめ謙信を圧倒し、ひいて彼の恭順を引き出そうと目論んだのでしょう。その目論見が成就したかどうかはともかく、、洛中洛外図には浮世絵を理解する重要な本質が含まれています。それは、浮世絵というものが、時代の様相=「現代風」「最新流行」をある意図をもって世に伝える媒体(メディア)であったということです。
浮世絵は単なる多色刷り木版画という平面芸術の一分野を越えた社会的存在であったということなのです。

では、その浮世絵、どのように生産されていたのでしょう。次に浮世絵の製作工程を見てみましょう。

《浮世絵の制作工程》
浮世絵の制作は、絵師、彫師、摺師、の3つの職能者による分業によって成り立っています。
まず絵師が版下となる原画を描きます。この原画は彫師の元に届けられ、彫り師はその原画を裏返しにして版木(山桜の一枚板)に糊で貼り付け、「墨線」(原画に描かれた線)に沿って小刀、すきのみ、まるのみ、ひらのみ、木づち等を用いて彫る作業を進めます。原画の線の勢いなどを再現する緻密で重要な工程です。彫り上がった版木を「墨板」と呼び、最後に正確な多色摺りを可能ならしめる「見当」を入れます。因みに、絵師の描いた原画は墨板の完成と共に消滅してしまいます。彫り師の元に次の注文が来ると表面を削って再利用した版木同様殆ど現存していません。

この墨板は色数分摺られ絵師の元に戻されます。これを「校合摺(きょうごうずり)」と云います。絵師はこの校合摺に朱色で色の指定を行います。この工程を「色さし」と云います。色さしされた校合摺は再び彫師の元に戻され、彫師は色さしに従って必要な色数分の「色板」を彫ります。

これら完成した墨板と色板は摺師の元に届けられいよいよ摺りの工程に入ります。
摺師はまず和紙を使う大きさに裁断し顔料の吸い込みが良くなるように湿らせておきます。この湿らせた和紙を用いて墨板に墨をのせて摺り上げ、図柄の輪郭線となる墨摺を完成させます。次に色板を用いて見当を頼りに順次色をのせていきます。色が淡く面積の小さいものから色が濃く面積の大きいものへと摺りあげる。この摺る工程では摺師は摺りの強弱や色板の部分の大きさに合わせて数種のバレンを使い分け、後述する浮世絵特有の表現技法「ぼかし」のために数種の刷毛を用います。色つけには植物性の草絵の具、鉱物性の顔料、人工的に調合された化学染料であるベロ藍(ベルリン藍)などが用いられました。これら多種多彩な道具と絵の具を用い、十五から二十の工程を経て一枚の浮世絵が完成します。

こうやって摺りあげられた浮世絵は「版元」によって販売されるのですが、この版元、単なる配給会社ではありません。世の中の動きを見極めながらどのような浮世絵を供給するかを企画立案する役目も担っています。浮世絵は版元と絵師の協働によって企画され、絵師、摺師、彫師、の三者によって制作され、版元によって販売される。つまり彼らは、企画・制作と流通を一貫して担う共同企業体であったのです。

《浮世絵の技法》
多色摺り木版画としての浮世絵の最大の特長は先述した「ぼかし」です。浮世絵の「ぼかし」とは空や水面、山並みなどの影を濃い色から淡い色に徐々に薄めていく(グラデーション)技法のこと。平滑な平面を彫ることによって描かれる木版画は本来「0」か「1」の世界です。彫られたところは線も色も無い余白「0」となり、彫られなかったところには線か色が残り「1」となる。ですから「ぼかし」という「0」と「1」が混在する表現は、木版画には元来見られない表現なのです。この不思議な表現を可能にしたのが摺り師の腕です。
ぼかしには、版木に予めぼかしの形が彫ってある「板ぼかし」、摺りの技法と使う道具によって「刷毛ぼかし」「拭きぼかし」、摺る場所によって「天ぼかし」「一文字ぼかし」、「当てなしぼかし」などの呼称があります。中でも「当てなしぼかし」では、不定形の形を何枚摺っても同じ形にしなければならず、またそのぼかしの形とぼかし具合が絵のニュアンスを決定するために、最も熟練した技術を必要としたといわれています。木版画芸術中最高傑作の一つといわれる広重の「大はしあたけの夕立」の、画面上端を占める垂れ込める黒い雲はこの当てなしぼかしの技法によって描かれています。

浮世絵の表現技法には、ぼかし以外にも「雲母摺」「布目摺」「空摺」「板目摺」「ごま摺」などがあります。「雲母摺」は細かく砕いた雲母を使い、夜景での街の灯りや星の瞬きなどマチエールに金属性の光沢感が必要なときに用います。「布目摺」は布を使った型押しの技法です。「空摺」は版木に彫られた形を粗めの撚糸のバレンで強めの力で摺ることによって得られる紙に窪みを与える技法。積もった雪の情景などの表現に用いられます。「きめ出し」は紙の表面を盛り上げる技法です。「板目摺」は絵に版木の木目を浮き上がらせる技法。「ごま摺」はごまが撒かれているかのような細かな摺りむらがあるように摺り上げる技法。
浮世絵は掛け軸などとして飾るのではなく、手にとって楽しむ絵であったことを考えると、これらの手法はまさに紙や絵の具の質感を楽しめる打ってつけの技法であったと言えましょう。

《初摺りと後摺り》
浮世絵の世界には「初摺り」と「後摺り」という言葉があります。「初摺り」とは摺りの工程に絵師が立ち会い、色の乗せ方や用いる技法についてあれこれと監督しながら摺り上げる、絵師の意図が最も良くあらわれているいわば初版もののことで、通常二百枚程度、多いときで四百から五百枚摺りました。後摺りとは初摺りの後版元の監督下によって摺られたもので、ぼかしが端折られていたり初摺りとは違う色が使われていたりします。現代では初摺りと後摺りでは取り引きされる値段がかなり違います。

《浮世絵の購買層とそのモチーフ》
狩野派琳派など、もともと絵は上流階級のものであり、絵の注文者は上級武士、公家、有力商家、有力寺社でありました。この関係を一変させたのが織田信長による体制変革です。これによって伝統的な絵師の集団は失職した。彼らは新たな発注者を求めなければならなくなったのです。これはフランス革命によって宮廷内の職場を失った料理人たちが町に出、そこで新たに台頭してきた市民階級のためのレストランを開いたことと似ています。浮世絵が隆盛を極めた江戸末期は庶民文化が大きく花開いた時代でもあり、庶民の生活スタイルが確立された時代でした。浮世絵はこういった時代の流れに乗ってその経済力を飛躍的に高めた庶民層が主なる顧客。江戸後期浮世絵はかけそば1杯と同じ値段、おおよそ20文で買えました。

このような時代背景の下に描かれた浮世絵には、美人画、役者絵、名所絵(風景画)、という三つのジャンルがありました。

当時の庶民にとって日常最大の娯楽は芝居・歌舞伎見物。役者絵は主に歌舞伎俳優を描いたものですが、これは芝居の興行主或いは芝居を上演する一座と版元がタイアップして宣伝のために描かれたものが多いようです。また、ひいきの役者が描かれた役者絵をコレクションするというような趣味もあったでしょう。

玄人を描いた役者絵に対し、素人女性を描いたのが美人画。現代でも読者モデルやカリスマ主婦などが様々なメディアでその生活や持ち物を披露して視聴者の憧れと欲望の対象となっているが、江戸時代、この役割を浮世絵に描かれた遊女や裕福な商家の町娘が担っていた。当時の「最新流行」はここから始まったのです。髪型、メイク、着物、帯、その他小物類。美人画の主な購買層は女性であったことから、買ったばかりの浮世絵を握りしめて髪結いや呉服商に向かう彼女たちの姿が想像されます。版元と呉服商のタイアップなどもあったことでしょう。美人画というジャンルは今の女性誌の役割を果たしていたということのようです。

名所絵は元々は役者絵若しくは美人画の背景であったものを葛飾北斎が独立したジャンルに育て上げたものです。北斎が生み出した名所絵は江戸後期に於ける庶民の旅行への欲求の高まりと共に人気の高いジャンルへと発展していきます。広重の有名な「東海道五十三次」はそういう庶民の憧れを代筆したものといえましょう。広重も北斎も江戸近郊の風景を多く残していますが、これらは地方から上京してきた人々の国元への土産物としても重宝されていたようです。名所絵はまた江戸庶民にとって遊行の手引き書としても使われていたようです。

では、この名所絵に凝らされた様々な工夫を北斎と並ぶ浮世絵の巨匠歌川広重という絵師を通じて見ていきましょう。

《歌川広重》
本名 安藤長右衛門。1797年(寛政九年)江戸八代州(現八重洲)河岸に公儀火消し同心の安藤家に生まれます。十三才で家督を継ぎ同同心となります。いまでいうと東京消防庁職員といったところでしょうか。広重の風景画に俯瞰的なモチーフが多いのは、公務で登った物見櫓からの江戸の街の眺めが原体験となり後の画業に影響を与えているのかも知れません。
長右衛門は祖父に新たに誕生した子(広重にとっては叔父?)の成人に合わせて二十七才の時家督を譲りますが、公務引退まで画業と公務を両立していたと云われています。初め当時浮世絵師の最大派閥であった歌川派の初代歌川豊国に入門を請いますが断られ、同門の歌川豊広に入門を果たします。入門翌年に師匠から一文字貰い広重と名乗ります。
天保二年葛飾北斎の「冨嶽三十六景」と時を同じくして「東都名所」を発表し名声を博します。広重は北斎を深く尊敬していたようで歌川一門に籍を置きながら度々北斎のもとを訪ね教えを請うていたようです。
翌天保三年公儀により上洛(京都出張)し、東海道を往復したときの印象を写生し、翌年シリーズ物として「東海道五十三次」を発表し大好評となります。この評判に後押しされて広重は「近江八景」「京都名所之内」「江戸近郊八景」「木曾街道六十九次」を次々と発表します。

広重最後の大作となった「名所江戸百景」は全ての絵が縦位置で描かれています。西洋から伝わった遠近法は江戸後期には日本の絵画の技法として完全に消化血肉化されており、広重もこれを駆使します。縦位置の画面は風景の奥行きを描くには適していますが、広がりを描くには大変不利です。この不利を克服するために広重は近景を大胆に引き寄せて描きます。更に、引き寄せた近景をばっさりと裁ち落として近景の一部分だけを見せる(例えば梅の幹の一部のみ)という大胆な構図はこうした遠近法の操作工夫の末に生まれたものですが、絵を見るものにはあたかも自分がそこにいるかのような臨場感を与えます。
時間の表現においても広重の仕事は画期的です。「大はしあたけの夕立」に見られる突然の夕立に浮き足立ち走り始める人々、「利根川ばらばら松」の画面の半分近くを占めている広がる投網など、まるで高速カメラで撮影したかのような一瞬の情景の切り取り方は、有名な北斎の「神奈川沖浪裏」とならんで秀逸です。
江戸名所百景に収録されたロケーションの中にはなんの変哲もないような郊外の田園風景も含まれています。現代のアラーキ、ホンマタカシ等が東京の風景を独自に切り取ることによって私達に、都市を見る目の変更を迫るような、そんな意図があったのかもしれません。
何れにしても広重の名所絵の特質は、写実的であることよりもむしろ描かれる地の印象をより強調して伝えるためのデフォルメであり、時間の切り取り方であったと思われます。また、絵の中に登場する庶民の様子からは彼らの生活が生き生きとしたものであったことが伝わってきます。当初シリーズの名称通り百図百景であったこの作品は、評判を呼び後に他の絵師(二代広重)の絵も合わせて最終的に百十九景となったことからも、広重の工夫が当時の世の中に与えたインパクトの強さが推し量られるというものです。
「名所江戸百景」を安政五年に完成させた広重は同年亡くなります。同時大流行したコレラに罹患したことが死因ではないかと云われています。

《甲州日記写生帳》
浮世絵の原画が原版となる墨板の完成と共に削られて消滅してしまうことは既に述べました。従って版元と彫り師と摺り師及び原画を描いた当の絵師本人以外は原画を見ることができません。
しかし広重の原画のタッチを知ることのできる貴重な資料が今回の講師である市川先生とロンドンギャラリーの尽力によって発見されました。それが「甲州日記写生帳」と呼ばれている手帳サイズの広重直筆の旅日記です。当時既に名声を確立していた広重は版元からの依頼や地方の素封家からの招待でよく旅をしています。「甲州日記写生帳」は天保十二年に広重が甲州の商人に招かれて同地方を旅したときの日記です。日記に書かれている内容は、「うなぎ屋に行き夜芝居を二幕見る」など地元の人の歓迎歓待振りや、「いづれも悪酒也」などといった酒や肴に関するもの。もともと他人に見せるつもりの無い日記のこと、言いたい放題なのですが、嬉しいことに訪れた先の風景のスケッチが多く残されています。後世の私たちはこのスケッチから広重の空間全体を把握する優れた力とタッチを知ることができます。太さの異なる筆を使い分け、スピーディーなタッチでけ巧みに遠近感を出したスケール感豊かな広重の肉筆スケッチは、現在千葉市美術館「広重 二大街道浮世絵展」で鑑賞することができます.http://www.coma-net.jp

《浮世絵が海外に与えたインパクト》
ヨーロッパの美術界で最も知られた浮世絵の愛好者はモネとゴッホでしょう。モネのジヴェルニーのアトリエにはいまでも浮世絵が退色したまま掛けられています。ゴッホは広重の「亀戸梅屋敷」「大はしあたけの夕立」を何度も模写しています。「タンギー爺さん」の背景では主人公を6枚の浮世絵が取り囲むように描かれています。
浮世絵の何が当時のヨーロッパの画壇にインパクトを与えたのでしょうか? 木版画である浮世絵特有の平板でシンプルで明るい色使いと、雨が黒い線で描かれていたり空が赤かったりといった色使いの自由さ。西洋絵画ではあり得なかった輪郭線の存在・・・。様々な切り口が考えられますが、中でも重要なのが、画家の視点であります。
西洋絵画では絵とは「画家による世界の眺め方」であるわけですから常にその視点が重要となります。一方、日本絵画は形式美を尊ぶ没個性(画家の自我という意味で)美を目指しますので、画家本人の近代的自我が表出されることはありません。この浮世絵における絵師の自由な視点選択は、当時のヨーロッパの画壇においては、近代的自我からの画家の解放を意味した。ある時は天高く舞う鷲の視点で、ある時は子犬の顔と同じ地面に寝そべっているかのような低い視点で。これによって鑑賞者は画家と自己を同一化する事ができたのです。
さらにもうひとつ、浮世絵の構図があります。ヨーロッパの絵画ではシンメトリーな構図が基本となります。ために、近景の大胆な裁ち落としなどの浮世絵独特の構図は衝撃的だったのでしょう。ゴッホが弟テオに贈った遺作「花咲くアーモンドの小枝」は、その枝振りから白梅が描かれているのかと見まごうばかりの浮世絵の影響が顕著な作品でです。

美術界以外にも浮世絵はヨーロッパの社会に強い影響を与えました。例えばパリのモード界。ジャポニスムという名で呼ばれたこの大きな流行は、パリのモード界に着物のような服を誕生させ、美人画に登場する女性達が纏う着物の柄は早速テキスタイルデザインに取り入れられました。

直接的な影響だけでなく、間接的にも浮世絵は当時のヨーロッパに様々な「日本」を紹介するきっかけとなっています。浮世絵に描かれた妖艶な女性たちに導かれ、多くのヨーロッパの男たちが海を渡って日本へと向った。そんな彼らが当時の日本を広くヨーロッパやアメリカ世界に紹介した事の重みは無視できないことでしょう。

幕末期に技術的にも人気の上でもピークを迎えた浮世絵は明治に入って普及し始めた写真とリトグラフ、新聞に取って代わられ衰退の道を辿ります。しかし浮世絵の精神と自由な表現、そして職人たちがそれぞれの立場で最善を尽くすという職業観は、その後の様々な業態やメディアへと脈々と受け継がれているのです。

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