ー忠臣蔵~とかなくてしすー葛西聖司先生 第六十九回和塾

日時:2009年12月8日(火) P.M.6:30開塾
場所:赤坂金龍 二階座敷

Text by kuroinu
69回目の和塾は葛西聖司先生の特別講座「」です。
会場は赤坂の料亭「金龍」。雰囲気抜群です。実は葛西先生のお稽古後、和塾有志による納会がありまして、お稽古の会場も料亭の一室となったわけです。

さて、平成21年最後のお稽古、お題は「忠臣蔵」でした。知っているようで実はかなりあやふやだった「元禄赤穂事件と忠臣蔵」のこと、ここでしっかり把握しておきましょう。

赤坂金龍二階舞台の葛西先生とお座敷の塾生

葛西先生のお話しは、まず史実としての「元禄赤穂事件」から。
事件の発端は、元禄14年3月14日(西暦では、1701年4月21日)。江戸城中松之大廊下で播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が高家旗本の吉良上野介義央に遺恨有りとして斬りつけたこと。吉良上野介は額と背中を斬られたが、軽傷で済んだ。浅野内匠頭は、居合わせた旗本・梶川与惣兵衛頼照に取り押さえられた。梶川がによると浅野内匠頭はその時「この間の遺恨おぼえたるか」と叫びながら斬りつけたという。時の将軍・綱吉の裁可により、浅野は即日切腹。赤穂浅野家は断絶となった。吉良上野介については、殿中での争いに手向かいしなかったということで、咎めナシ。ここに元禄赤穂事件が起ち上がる。

さらに史実を追ってみましょう。

播州赤穂藩にこの知らせが届いたのは5日後の19日。早駕籠による急使の到着は驚くほど早いのですが、噂話はそれに先行したという。ちなみに、赤穂藩は現在の兵庫県の南西部、岡山県との県境に位置する。江戸・東京からの距離は約700キロ。時速10キロで1日12時間走っても6日はかかる勘定ですから、5日で到着した急使というのはいったいどんなことだったのか。それより先行した風の噂とは何だったのか。謎です。急使は、早水藤左衛門と萱野三平の二名。知らせを聞いた赤穂藩筆頭家老大石内蔵助良雄はすぐに藩士全員に登城を命じたといいます。

断絶となった赤穂藩は、翌4月19日に赤穂城を無血開城。大石はこの前後から浅野家再興の嘆願をあらゆるルートを通じて展開している。一方で、開城ではなく籠城を主張した藩士たちをまとめるために、吉良への仇討ちを前提とした開城で着地させた大石は、この後およそ1年をかけて再興運動と仇討ちへの準備をつづけることになった。藩内の御家再興優先派と即刻の仇討ちを主張する急進派の軋轢は激しく、大石の家老としての手綱さばきは苦心の連続だった。この時大石内蔵助は42才。和塾塾生とあまり変わらない年齢だったのですな。

大石が御家再興運動や急進派の押さえ込みを実施している頃、幕府は吉良家にも一定の処分を下しはじめる。そのひとつが、元禄14年8月19日の屋敷代え。それまで江戸城近くの呉服橋にあった吉良家の屋敷を当時江戸の外れだった川向こうの本所松坂町に移させた。こうした状況の中、上野介は役職への復帰を諦め、同年12月12日、家督を養子の左兵衛義周に譲り隠居してしまった。その後姻戚関係にある出羽国米沢藩上杉家に移るという噂も。上野介が米沢城に移ったのでは、仇討ちはほとんど不可能になる。浅野家藩士による討ち入り決行が、内匠頭一周忌の元禄15年3月14日とされたのはこうした事情もあった。

14年の年末頃からは、討ち入りへの脱退者も出始め、結局大石は翌年2月、藩主世子・浅野大学の処分が決まるまでは決起しないことと定める。御家再興への最終決着はこの年の7月、幕府が浅野大学長広に広島藩への永預かりを言い渡したこと。これで御家再興の望みは完全に絶たれることになる。同月28日、江戸急進派の堀部安兵衛も招いて開かれた京都円山での同志会議にて、大石は本所吉良屋敷への討ち入りを決定した。その後大石は江戸へ下る。

討ち入りは、さまざまな情報収集から上野介在宅が確実な、吉良家で茶会の開かれる12月14日と決する。12月2日に同志総員が深川八幡茶屋に集まる。この時点で残る同志は47名。大石内蔵助良雄 おおいしくらのすけよしお・大石主税良金 おおいしちからよしかね・原惣右衛門元辰 はらそうえもんもととき・片岡源五右衛門高房 かたおかげんごえもんたかふさ・堀部弥兵衛金丸 ほりべやへえかなまる(あきざね)・堀部安兵衛武庸 ほりべやすべえたけつね・吉田忠左衛門兼亮 よしだちゅうざえもんかねすけ・吉田沢右衛門兼貞 よしださわえもんかねさだ・近松勘六行重 ちかまつかんろくゆきしげ・間瀬久太夫正明 ませきゅうだゆうまさあき・間瀬孫九郎正辰 ませまごくろうまさとき・赤埴源蔵重賢 あかばねげんぞうしげかた・潮田又之丞高教 うしおだまたのじょうたかのり・富森助右衛門正因 とみのもりすけえもんまさより・不破数右衛門正種 ふわかずえもんまさたね・岡野金右衛門包秀 おかのきんえもんかねひで・小野寺十内秀和 おのでらじゅうないひでかず・小野寺幸右衛門秀富 おのでらこうえもんひでとみ・木村岡右衛門貞行 きむらおかえもんさだゆき・奥田孫太夫重盛 おくだまごだゆうしげもり・奥田貞右衛門行高 おくださだえもんゆきたか・早水藤左衛門満尭 はやみとうざえもんみつたか・矢田五郎右衛門助武 やだごろうえもんすけたけ・大石瀬左衛門信清 おおいしせざえもんのぶきよ・礒貝十郎左衛門正久 いそがいじゅうろうざえもんまさひさ・間喜兵衛光延 はざまきへえみつのぶ・間十次郎光興 はざまじゅうじろうみつおき・間新六郎光風 はざましんろくろうみつかぜ・中村勘助正辰 なかむらかんすけまさとき・千馬三郎兵衛光忠 せんば(ちば)さぶろべえみつただ・菅谷半之丞政利 すがやはんのじょうまさとし・村松喜兵衛秀直 むらまつきへえひでなお・村松三太夫高直 むらまつさんだゆうたかなお・倉橋伝助武幸 くらはしでんすけたけゆき・岡嶋八十右衛門常樹 おかじまやそえもんつねしげ・大高源五忠雄 おおたかげんごただお(ただたけ)・矢頭右衛門七教兼 やとう(やこうべ)えもしちのりかね・勝田新左衛門武尭 かつたしんざえもんたけたか・武林唯七隆重 たけばやしただしちたかしげ・前原伊助宗房 まえばらいすけむねふさ・貝賀弥左衛門友信 かいがやざえもんとものぶ・杉野十平次次房 すぎのじゅうへいじつぎふさ・神崎与五郎則休 かんざきよごろうのりやす・三村次郎左衛門包常 みむらじろうざえもんかねつね・横川勘平宗利 よこかわかんべいむねとし・茅野和助常成 かやのわすけつねなり・寺坂吉右衛門信行 てらさかきちえもんのぶゆき。最年少は大石主税の15才、最年長は堀部弥兵衛の76才だった。

討ち入りは、現在の時刻では翌15日の未明午前4時頃だが、当時の慣習では日の出までは14日となるので、12月14日夜の斬り込み。快晴の満月の夜だったとのこと。史実によると、赤穂浪士側は負傷2名、吉良家は16名が死亡し負傷者は23名だった。

討ち入り後の処置。将軍綱吉や側用人柳沢吉保らは、死罪か助命かで対応に苦慮。助命に傾いた綱吉は、皇族からの恩赦の形での助命を画策した。上野寛永寺に住む公弁法親王に恩赦を依頼したところ親王は「本懐を遂げた浪士を生き長らえさせて世俗の塵に汚すより切腹させることによって尽忠の志を後世に残すべきである」と述べたという。その後、将軍綱吉は赤穂浪士へ切腹を命じることを決意した。浪士46名の切腹は元禄16年2月4日。遺骸は主君浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された。尚、47名の浪士の内ただ一人寺坂吉右衛門信行のみ討ち入り後隊を離れている。身分の軽かった寺坂は大石の命によって各署への伝達のために放たれたのだろう、というのが葛西先生のお話しでした。

さて、今回はイヤに長くなりましたがここから「忠臣蔵」のお話しです。仮名手本忠臣蔵というのは、もちろん元禄赤穂事件を題材にしているのですが、基本的には虚構の物語。随所に史実とは異なる部分があります。我々は忠臣蔵の影響を強く受けすぎて現実と虚構が入れ違ったりしているようですね。
人形浄瑠璃「」が上演されたのは寛延元年(1748年)8月14日のこと。大阪・竹本座です。元禄14年(1701年)3月14日元禄赤穂事件がおこって奇しくも47年目のこと。原作者は、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。人形浄瑠璃として大当たりとなった「」はさっそく歌舞伎に移されます。わずか4ヶ月後の同年12月には大阪中の芝居嵐三五郎座、翌年2月から江戸森田座、さらに1ヶ月おくれて京都中村松兵衛座。半年余りの間に、大阪・江戸・京の三都で歌舞伎の「」が上演されています。
外題の「仮名手本忠臣蔵」。仮名に対するのは真名。真名で書かれたものが公的な歴史なら仮名は庶民の歴史物語の意。仮名はいろは47字あり、これが赤穂浪士47名と同数ですね。手本は武士の手本の意。蔵は大石内蔵助の蔵でありまた、さまざまな物語が詰まっていることを表してもいます。
忠臣蔵の世界は、元禄の江戸や赤穂ではなく、室町期の「太平記」の世界を借りている。近松門左衛門がやはり元禄赤穂事件を題材とした「碁盤太平記」を書いているのですが、ここで使われた世界が後の仮名手本忠臣蔵でも踏襲されている。従って、登場人物名なども太平記からとられていたりして実名とは違っています。例えば、大石内蔵助は大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)、浅野内匠頭は塩冶判官高貞(えんやはんがんたかさだ)、吉良上野介は高師直(こうのもろのう)、内蔵助の子・大石主税良金は大星力弥(おおぼしりきや)、赤穂家老大野九郎兵衛は斧九太夫(おのくだゆう)、といった具合。

この「仮名手本忠臣蔵」は「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」と並ぶ人形浄瑠璃の三大傑作のひとつ。忠臣蔵の人気は中でも際だっていて、後に映画や小説、テレビドラマなどで再三創作されています。歌舞伎や文楽では、上演すれば必ず大入り満員になる演目として有名。上演回数もとても多いです。次回上演には必ず足を運ばねばなりませんな。

最後に葛西さんから仮名手本忠臣蔵に仕込まれた元禄赤穂事件の秘密をひとつ。いろは47文字を7文字ずつ区切ると各区切りの最後の文字は「と・か・な・く・て・し・す」となります。これ「咎なくて死す」と読めますね。内匠頭も上野介も赤穂の47士も、実のところは咎なく死していったのでしょうか。

古典芸能は、知れば知るほど面白くなる、という葛西先生の言葉を胸に刻んで、平成21年最後のお稽古も幕となりました。

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お稽古後の有志による納会、実はお世話になった和塾講師の先生方にも少しばかりおいでいただきました。
下の写真は待合にお揃いの先生方。左側手前から鳥越文蔵先生、石倉光山先生、葛西聖司先生、山本東次郎先生、右側は奥から鈴木万亀子先生、荒井修先生、稲畑廣太郎先生、手前背中は望月美恵先生です。

先生方お忙しいなか、本当にありがとうございました。
平成22年の納会は、全講師・全塾生・関係諸氏揃い踏みの「和塾総会」を計画しております。

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