2018年は明治元年(1868年)から満150年の年に当たる年。大河ドラマは幕末の英雄として知られる西郷隆盛が主人公の「西郷どん」です。
このドラマを見る前に、和塾では2016年に「明治維新という過ち完結編・大西郷という虚像」を上梓された作家の原田伊織先生をお招きして恐らく大河では語られる事のない西郷の実像を伺いました。
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日時:2017年12月12日(火) P.M.7:00開塾
講師:作家 原田伊織先生
場所:国際文化会館
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まず以って、誤解のないようにお伝えしなくてはならない事は、原田先生は過激な主張で目立ちたい訳でも、政治的な思想や立場に拘ってはいないという事。吉田松陰や幕末の長州藩は英雄などではなく「テロリスト集団」であると主張した著書「明治維新という過ち・日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」は自宅の表札を出せなくなるほど反響が大きかったそうですが、今回の著書「大西郷という虚像」を含めて原田先生が行っているのは、現代の日本人が評価・検証を行っていない「近代日本」150年分の歴史についてその評価をする事。そして、伝えたい事は明治維新の実態・実像を検証し、そこから学んだ事を教訓として同じ過ちを犯さないようにする事、そして未来に活かすべきであるという事。
原田先生は小説やドラマで明治新政府を確立した当事者たちが英雄として語られる事が問題なのではなく、造られた美談や虚像をはがし、その実態を検証する事を歴史学者でも小説家でもない自分が冷静に行い、発表する事に使命を持って取り組んでいると今回のお話を伺って知る事ができました。

さて、西郷隆盛といえば木戸孝允(長州)、大久保利通(薩摩)とともに「維新の三傑」に数えられ、明治維新実現に大きく尽力した薩摩藩出身の人物。
その業績としては、「江戸城無血開城」や「征韓論の敗北と下野」、「薩長同盟」が知られますが原田先生いわくこれらはどちらも私たちの認識と実態には大きな違いがありました。ここではお話いただいた中で「江戸城無血開城」の実態についてご紹介します。

●「江戸城無血開城」
一般的な認識:
幕府を代表する勝海舟と江戸へ進軍した官軍を代表する西郷隆盛との二者面談において、お互いがお互いの人物に感じ入り、江戸城を戦う事なく(一滴の血も流す事なく)開城する事に双方合意した。

原田先生による実態(一部):
そもそもこの会談は「鳥羽伏見の戦い」の終戦交渉であり、戦いに負けた幕府軍が城を明け渡すという事は戦国時代から続く当たり前の事。幕府軍の実際のリーダーは勝海舟だけではなく、大久保忠寛(隠居後は一翁)、山岡鉄舟らがいたが、彼らに取って江戸城開場はさほど問題ではなく、「徳川家をどう存続させるか」という事。そして、その問題であった徳川慶喜の赦免は一参謀に過ぎない西郷の権限ではなく岩倉具視など京都にいた実際の権力者によって了承済みであった。しかも、この時江戸城には天璋院篤姫(薩摩出身・13代将軍徳川家定の正室)と和宮(皇族出身・14代将軍徳川家茂の正室)がいた。この人がいる限り、西郷は絶対に江戸城には手を出せない状況であった。

●世間の印象とは異なる西郷の性格
さらに西郷の性格から、その性格が影響したエピソードをお話いただきました。
原田先生いわく西郷の性格は、「戦好き」「戦略好き」「粘着質」「協調性がない」というもの。
このうち、「戦好き」「戦略好き」な性格は「目的のためには手段を選ばない」という考え方につながり「赤報隊」を組織し、江戸で強盗、放火、強姦、強奪といった騒乱を起こさせました。これは幕府との戦いを始めるきっかけ作りの挑発行為でしたが、幕府側がたまらず挑発に乗ってしまった事により鳥羽伏見の戦いに突入するのです。しかも西郷は最終的に自ら組織したこの赤報隊を抹殺し使い捨てにしました。
また、「粘着質」「協調性がない」という性格であったがために、薩摩藩藩主の島津久光とは一生不仲でした。西郷は生涯で3度の島流しを経験しますが、2度目の島流し後に初めて対面した藩主・島津久光に対して「あなたのような「地ごろ」(田舎者)に主君が務まるわけがない」と言い放ち、久光の命令を無視して勝手に独断専行し3度目の島流しになるのです。これは島津久光が、自分の兄であり西郷が尊敬していた島津斉彬をとお家騒動(お由羅騒動)で対立した事が影響していると言われ、西郷はその時の恨みを生涯忘れなかっただそうです。

●最期まで二才頭を貫いた西郷隆盛
薩摩には「郷中(ごじゅう)教育」と「テゲの文化」が士風として根付いていました。
「郷中教育」というのは、年長者が年少者を躾ける若衆制度で、一定の年齢に達した青年が同じ郷の少年に対して何から何まで教えます。薩摩ではその中で「テゲ」を重視しました。「テゲ」とは「大概にしておけ」という意味であり、そういった態度、大将の雰囲気の事。「細かい事にはこだわるな。小さい事は全て若い者、部下に任せろ」という考え方です。それぞれの郷中にはリーダーがいて「二才頭(にせがしら)」と呼ばれ、若者のリーダーとして大人からも尊重されました。「二才頭」には「テゲ」の雰囲気、考え方が求められます。薩摩の文化というのは「テゲ」の文化でもあるのです。西郷隆盛を始め、弟の西郷従道、日露戦争の満州軍総司令官・大山巌(西郷の従兄弟)や日本海大海戦の提督・東郷平八郎も「二才頭」を経験しました。原田先生いわく、「大将の雰囲気は薩摩から出る」と言われるのはこの郷中が育んだもので、西郷に対して持つ一般的なイメージも「テゲの文化」が最も影響しているとのこと。
西郷が生涯の最後に「西南の役」でかつての盟友、大久保利通率いる新政府軍に対抗した内乱に際して「みんながそこまでいうならやるか」と薩摩軍のリーダーを引き受けたのも「二才頭」だからこそ首を縦に振ったとしか思えないというお話が最も印象的でした。

冷徹な戦略家としての西郷と、二才頭として幕末動乱を生き、滅んだ西郷の二面性を知ることができました。このお話を踏まえて2018年の大河ドラマを楽しみたいと思います。
原田先生、貴重なお話ありがとうございました。

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