第百七十一回本科お稽古 我が家の家紋 

日時:2017年7月11日(火) P.M.7:00開塾
場所:来迎山 道往寺

本日の和塾は家紋。
家紋研究家の高澤等先生より、家紋のお話しを伺いました。


みなさんご自分のおうちの家紋をご存知でしょうか。
着物、墓石、仏壇などに刻まれているかと思います。

日本人はほとんどすべてといっていいほど家紋を持っています。
これは西洋の紋章とは異なります。
貴族から平民まですべての階層で家紋という文化を共通して持っていたということになります。
西洋では貴族、町人、あるいは町としての紋章、そういうものはあるけれど
庶民が紋章をもっているという文化はありません。

家紋は日本が世界に誇れる紋章文化なのです。

お稽古の後半は塾生の皆様のお家の家紋についてお一人お一人解説いただきました。

先生の調査と塾生のご先祖様の出身がピシャリとあったり、由縁が難しい家紋であったり、
さまざまでしたが、苗字と土地と家紋の関係が大変つながりが深く、面白い内容でした。

家紋は日本に3万以上存在します。
家紋の種類はざっと300種、それらのバリエーションによって3万以上の数となるのです。
以下家紋の歴史の一部をご紹介いたします。

●家紋はいつごろ始まったのか。
それは約950年くらい前。それまでは個人を示す紋章というものはなかった。

●どういうことをきっかけに家紋が使われるようになったのか
平安時代、朝廷に使える公卿たちが、牛車に独自の文様を描き、その牛車を代々受け継がれることで、描かれた文様が家紋となる。
もともと、すべての貴族が同じ紋章を牛車につけていた。それでは誰が乗っているのかわからない。
藤原実季が三つ巴の紋章を車文として用いたのが始まりとされてる。
家紋ですから、個人の文ではない。親から子へ、子から孫へと代々受け継ぐ。
藤原実季が用いた巴紋を代々受け継いで、やがて西園寺家の家紋になった。
それが記録として最古のものである。

●貴族で始まった紋章はやがて武家に
武家というと、源氏・平氏。源平合戦。このころ、武家は家紋をもっていない。
絵をみると、赤旗、白旗のみで紋はない。
この頃の戦いは、自己紹介をしてから戦ったため、個人を見分ける紋章は必要がなかった。
そこに源義経といわれる戦の天才が現れて、一対一の戦いから集団の戦いに移行していった。
名乗りをあげず、いきなりの戦いに。
どこで戦交があったのかわからないことも。
私がだれだれの首を取ったという手柄を見てもらうために、自分を表す紋章が必要だった。それを旗に描いた。
それは大体鎌倉時代が始まる少しくらい前から始まったといわれている。

●見聞諸家紋(けんもんしょかもん)
鎌倉時代から室町時代に移行すると、衣服に付けるようになった。
大紋の発展である。
見聞諸家紋は、日本の武家の家紋を集録した家紋集で、家紋を集録した書物としては日本最古のものである。
応仁の乱の時、東軍側についた紋を集めて描いたもの。

●戦国時代
関ヶ原合戦図屏風ではほとんどの旗に紋がはいっている。
味方に見せるため、自分がどういう功績をあげたか上司に見せる。
また、乱戦になってはぐれてしまったとき、自分の主人の旗をつけてそこに戻ってくるようにという意味でつけた。

●秀吉、天下取り、関ヶ原の合戦を経て、徳川家康の時代。
合戦上で旗を使うということがほとんどなくなった。
そうすると家紋は戦場より、殿中で使われるようになった。

●江戸時代の下座身役
江戸時代、江戸城に向かうには5つの門を通過しなければいけない。
見附(赤坂見附など)がそれである。そこで監視していた。
どこの大名が登城してくるのか家紋と槍袋をみて判断した。
大名行列の先頭にははさみ箱を高く掲げていたので、そこに書いてある家紋を判断した。
しかし家紋だけでは、同じ家紋が使われるため判断がむずかしい。
そこで、やりの先に、袋をかぶせて、家紋と袋の形でどの家かということを判別していった。
門には下座身役という武士がいて、これはそういう家紋・槍袋を専門に見分ける職業だったわけですね。
これを見分けてトップに伝えるわけです。どこどこの門にだれだれが来た。
そうすると奥のほうで大名を迎える準備をするわけですね。
大名は格によって待遇が違います。
その門をかごに乗ったまま通過できる大名もいれば、かごを降りなければいけない大名もいる。
通される部屋も違う。
そういうことがあるので、どんな大名かいち早く奥に情報を伝えて準備ができるようにする。
下座身役になる人は小さいころから家紋が描かれた本やカルタなどで遊んで大名家の家紋を覚えたといわれている。

●江戸時代の殿中での家紋の利用法
江戸時代、家紋というものが殿中で用いられるようになった。
5つ紋と言って、胸に2つ、背中に1つ、袖に2つつけて公務にあたっている。
広い江戸城の中にはで多くの人がいる。当然全員の顔はわからない。
人を見分けられないという時に、家紋をみて見当をつけた。

●庶民の家紋
江戸時代に庶民層まで家紋の使用が広がっていった。
家紋が庶民(特に江戸で)に広がったのは、貞亨、元禄年間(1684~1703)のようである。
全国的にみると地域のよって、それぞれ事情が異なっていたと考えられる。
江戸時代初めの寛文4年(1664)、幕府は寺請制度(檀家制度)というものを整えます。
これにより寺院は庶民の墓所ともなり、人々は寺院によって管理されることになった。
それまで自由に菩提寺を変更できたのが、変更不可となり戸籍をお寺が管理するようになった。
お墓も移動できなくなるので、親子代々ずっとつかっていくスタイルに。
それまでは石ころだったり木の棒だったりしたものが、恒久化が進み、墓石を使うようになった。
そうすると、そこに自分の家の紋章をいれるようになった。

ここで1700年前半に読まれた川柳をご紹介。
桶と花 下げて定紋 見てあるき
紋所を さがす無沙汰の 寺参り
川柳は庶民層の文化。庶民の生活を読まれたものだろうと思われる。
これは自分の紋所の墓石を探す川柳。
よって、このころの庶民のお墓にも家紋が描かれていたことが分かりますね。
これらが、江戸時代に庶民に家紋が広まっていったといわれる由縁。

●天皇家が菊紋を使い始めたのはいつごろのことなのか
菊の紋か桐の紋。
天皇家が菊の紋を使い始めたのは公家が家紋を使い始めたのよりずっと後。
後鳥羽天皇という方が、とても菊の紋章がお好きで、自作の刀に菊の紋を刻んで、それを家臣に与えていた。
それが次の天皇、さらに次の天皇と代々菊紋を受け次ぐようになって、皇室の家紋になったといわれている。
これが定説。しかし、疑問も。
北野天神縁起絵巻、菅原道真が大宰府に流されたときの様子を描いた。
泣いているのが菅原道真で、目の前にあるのが天皇から下された衣服。
菅原道真のことを憐れんで天皇が服を与えたわけです。それに菊紋がはいっている。
菅原道真は平安時代の方、この絵巻が書かれたのがちょうど後鳥羽天皇の在世中。
それでこの様な絵巻物のルールとして、描いたものをみてすぐにそれが連想されるものでないと意味がない。
なので後鳥羽天皇が在世中にここに菊の紋があるということは、もうすでに天皇家が菊の紋を使っているということを誰もが知っていないとおかしいのでとも思われる。
よって、後鳥羽天皇の数代前から実はは菊の紋は使われ始めていたのではないかとも考えられる。
決定的な資料がないので、あくまで推測であるが。

天皇家はもう一つ桐の紋。
足利家が天下を取った時、豊臣秀吉が天下を取った時にこの桐の紋をあたえた。
徳川家康だけはいらないと。そういうことで、政権を担当するものに桐の紋を与えるという暗黙のルールがありました。総理大臣が内閣府で使っているのですけれども、法律とかそういうものにはなっていない。
慣習的に政権を担当するものが内閣府で使っているのですね。これはいつごろから使い始めたか。小泉政権から。ほんの少し前ねんですね。
それまではサミットなど世界に発信するように時はホテルでしていた。
ホテルの宴台を使用していたけれど、そうすると宴台のホテルのマークがついてしまう。
世界に発信するのにそれはよろしくないのではということで、取り外し可能な紋章を作った。
それで小泉政権以降は総理大臣が宴台に立つときは桐の紋を貼っている。
また桐紋は五七桐と五三桐がある。
基本的には天皇陛下から直接いただいたものは五七桐、それをさらに下の者が与えられると五三桐ということになる。
有名な織田信長の肖像画は五三桐。
なぜかというと、天皇家から足利家、足利家から織田家というようにワンクッションおいてから織田家下った為。

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